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石川和介 : ミニ英和和英辞書
石川和介[いしかわ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [かい]
  1. (n,vs) shell 2. shellfish 3. being in between 4. mediation 5. concerning oneself with

石川和介 ( リダイレクト:関藤藤陰 ) : ウィキペディア日本語版
関藤藤陰[せきとう とういん]
関藤 藤陰(せきとう とういん、文化4年(1807年) - 明治9年(1876年12月29日)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。幼名は元五郎、は成章、は君達。養家の石川姓を名乗っていたため、通称と合わせて石川 和助(いしかわ わすけ、和介とも)と呼ばれる。江戸幕府老中福山藩主阿部正弘側用人(君側御用係)として幕政に関与する。明治維新の際には執政として藩論を新政府支持でまとめた。
== 生涯 ==

=== 頼山陽の門人 ===
文化4年(1807年) 、備中国吉浜(現在の岡山県笠岡市)の医師・神官の関藤政信の四男に生まれる。温厚で純朴な人柄であったという。
生まれてすぐに両親が死去し、父の医師仲間であった同国の石川順介の養子となる。養父はその才能を高く評価して、別家に養子に出ていた藤陰の兄と相談の上、同国の小寺清先の元で学問を学ばせる。文政11年(1828年)、清先の死去すると儒学者の頼山陽の元を訪れて弟子となる。山陽の元での生活はわずか4年ではあったが、山陽は師弟の枠を越えた友人として遇するようになった。そのため天保3年(1832年)に山陽が危篤に陥ると遺言と校正途中であった『日本政記』の原稿を藤陰に託して病死する。藤陰は残りの校正作業と頼家の家産の整理を行って、『日本政記』を刊行にこぎつけた。その後、江戸に赴いて10年ほど勉学を続けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関藤藤陰」の詳細全文を読む




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