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石川 義孝(いしかわ よしたか)は、山城淀藩の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家5代。 == 生涯 == 万治2年7月30日(1659年9月16日)山城淀藩石川家初代藩主・石川憲之の次男として誕生した。延宝元年12月22日(1674年1月28日)元服し、元禄元年4月(1688年5月)中奥小姓となり、元禄4年2月(1691年3月)狭山藩主・北条氏治の娘を正室として迎えた。元禄6年12月18日(1694年1月13日)従五位下・越前守に叙任した。長兄で嫡子であった昌能、その長男であった勝之とも早世し、勝之の子総慶が幼少であったことから、宝永2年2月28日(1705年3月23日)嗣子となり、主殿守に改められた。併せて総慶を義孝の養子とした。宝永3年2月25日(1706年4月8日)父の隠居により家督を継いだ。 宝永5年3月8日(1708年4月28日)宝永の大火により仙洞御所が炎上したことから、被災後の処理・御所護衛を仰せつかる。また、同6年1月15日(1709年2月24日)寛永寺で行われた5代将軍・徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられた加賀大聖寺新田藩主・前田利昌が、大准后使饗応役であった大和柳本藩主・織田秀親を同年2月16日(3月26日)に寛永寺吉祥院宿坊で刺殺した。事件後、利昌は淀藩石川義孝預かりとなり、2月18日(3月28日)下谷大名小路の淀藩石川家上屋敷(現東京都台東区上野1丁目)で切腹した。 宝永7年9月2日(1710年10月23日)52歳で死去し、養嗣子の総慶が家督を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川義孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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