翻訳と辞書
Words near each other
・ 石帯
・ 石幡信弘
・ 石幡忠雄
・ 石干見
・ 石平
・ 石平 (劉没鐸)
・ 石平 (評論家)
・ 石平ひかり
・ 石平信司
・ 石平光男
石床幹雄
・ 石底線
・ 石底駅
・ 石座村
・ 石座神社
・ 石座神社 (岡崎市)
・ 石庫門
・ 石庭
・ 石廈駅
・ 石廊


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

石床幹雄 : ミニ英和和英辞書
石床幹雄[いしどこ みきお]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [みき]
 【名詞】 1. (tree) trunk 2. (arrow) shaft 3. (tool) handle 4. backbone 5. base 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

石床幹雄 : ウィキペディア日本語版
石床幹雄[いしどこ みきお]

石床 幹雄(いしどこ みきお、1947年9月10日 - 2004年11月23日)は香川県小豆郡福田村(現・小豆島町)出身のプロ野球選手投手。右投右打)・料理人
== 来歴・人物 ==
1963年高松商業高校に入学。しかし、同学年で投手は3人という厳しい競争を強いられ、入学してから数ヵ月後、土庄高校に転校する。
2年生の秋に岡山東商業高校との練習試合で登板した石床は、当時すでにプロ候補として知れわたっていた平松政次と投げ合い、完封勝利を収めた。後に大洋ホエールズに入り200勝投手となる平松に投げ勝った無名の投手に、プロ各球団が注目した。特にシュートに威力があった。翌1965年は土井池憲治(立大-大丸)との二本柱で春の県大会初優勝。夏の甲子園県予選を勝ち抜き北四国大会に進むが、準決勝でエース西本明和を擁する松山商に敗退。結局、春夏とも甲子園には出場できなかったが、さらに注目を集め、プロ野球への道が開けた。
1965年から始まったドラフト会議阪神タイガース最初のドラフト1位に指名され、入団(同期には後に監督となる藤田平がいる)。この時の背番号18。ドラフト指名時、石床は四国電力に就職が決定していた。さらに、当時このドラフト会議で阪神は鈴木啓示を指名すると予想されていた。しかし、当時の阪神のチーフスカウトであった佐川直行が、「おれのスカウト生命をかける」と言って周囲を説得、1位指名に至った。
1966年にプロ入り初出場を果たす(14試合登板、防御率2.35)。しかし勝ち星には恵まれず、初勝利は1969年10月12日の対大洋戦。しかし、このシーズンオフに慢性腎不全に侵されていることが判明。翌1970年8月肺炎のため、わずか5年というプロ野球人生に自ら幕を閉じた。
引退後は地元で療養をしながら実家の旅館を手伝い、1976年より活魚料理店「石床」を経営。以降は人工透析などの治療を受けながら料亭の経営を続けていたものの病状は悪化。そして、2004年11月23日に自宅で倒れ、病院に搬送されるも、搬送先の病院で急性心不全のため亡くなった。。
近鉄で317勝の実績を残して引退した鈴木啓示が、講演で近くに来たついでに「石床」に来店し、「わしは阪神に行くはずやった。しかし、おまえが来たから近鉄になったんや。」と切り出したことがあった。しかし石床は苦笑しつつも「わしが決めたわけじゃない。当時、阪神のスカウトが見たらわしの方が上だったから、一位になれたんじゃないか」「(自分は1勝しかできなかった)けど、おまえは近鉄の二位。わしは阪神の一位。いくら三百勝といっても、それは変わらんぞ」と言い返した。鈴木からゴルフに行こうと誘われたが、これも意地で断ったという。
また、翌年ドラフト1位で阪神入りした江夏豊は後に、「もし前年阪神が鈴木さんを指名していたら、球団は2年連続で高校生の左腕は取らなかった。従って阪神の江夏も無かっただろう」と語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「石床幹雄」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.