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石束りく : ミニ英和和英辞書
石束りく[こく, いし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [そく, つか]
 【名詞】1. handbreadth 2. bundle, fasciculus, fasciculus

石束りく ( リダイレクト:香林院 ) : ウィキペディア日本語版
香林院[こうりんいん]

香林院(こうりんいん)、りく(理玖とも)(寛文9年(1669年) - 元文元年11月19日1736年12月10日))は、江戸時代前期の女性。赤穂藩家老大石良雄の妻。当時用いられた名乗りではないが、現代では大石りくとも呼ばれることもある〔出身地の豊岡市で「大石りくまつり」が開催されるなど〕。
== 生涯 ==
但馬国豊岡藩京極家家老石束毎公の長女として誕生。母は佐々信濃守休西の娘。石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、1200石を食む京極家中一番の名門家であった。大柄だったといわれ、身長は6尺(180センチ)あったともいわれる。
貞享4年(1687年)、播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老の大石良雄と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住。元禄元年(1688年)に長男松之丞(のちの大石良金)、元禄3年(1690年)に長女くう、元禄4年(1691年)に次男吉千代、元禄12年(1699年)に次女るりを生んだ。なお、良雄には妾がおり、元禄14年(1701年)2月17日に妾の産んだ女子が4歳で夭折したことが花岳寺の資料に見える。
同年3月14日、江戸城で勅使饗応役をつとめていた主君浅野長矩高家旗本吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹の上、赤穂藩は取り潰しとなった。5月の赤穂城開城後、良雄が開城残務処理にあたっている間、4人の子らとともにりくは、一時但馬豊岡の実家へ帰ったが、その後、良雄が山科に住居を定めたので、7月初めにりくも山科に移り、再び一緒に暮らした。この夫婦生活でりくは、また一人子を身ごもった。しかし良雄の盟約に加わった同志たちの間で密談が進む中、盟約の「妻子にもしゃべらない」の原則を守るため、元禄15年(1702年)4月15日、良雄は、盟約に加わることを望んだ長男良金を除いて、りくと他の子らを再び豊岡に戻した。さらに連座が及ばぬようにとの配慮から、りくと絶縁。7月5日に石束家で三男にあたる大石大三郎を出産した。
12月15日、夫良雄と長男良金を中心にした赤穂浪士たちが仇の吉良義央の首をあげて本懐をとげたあと、2月4日に切腹となる。残されたりくは、良雄の遺児たちの養育にあたった。長女くうと次男吉千代はそれぞれ若くして死去したが、次女るりと三男大三郎が無事成長した。また世間では亡き夫大石良雄の人気が過熱したこともあって、安芸国広島藩の浅野本家が良雄の子を家臣に欲しがり、正徳3年(1713年)9月に大三郎は、父良雄と同じ1500石にて浅野本家に仕官した。また次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚している。
りくは、落飾してから香林院(青林院とも)と称し、広島藩から隠居料として100石を支給されていたが、元文元年(1736年)に死去。享年68。広島の国泰寺に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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