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石橋 和義(いしばし かずよし/まさよし)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。吉田義博の子。石橋氏初代当主。足利直義派の宿将と言われるが、観応の擾乱初期から尊氏派としての旗幟を鮮明にしている。斯波高経と足利尊氏は同年代であったが、高経と和義の官途の補任年代からみても和義も尊氏や高経と同年代であったと推察できる。 == 生涯 == 1336年に山陽・山陰の国人らに軍勢催促状を発し、足利尊氏西走の際に備前国三石城にて、城主として新田勢の猛攻をしのぎ、尊氏の西下・東上を助けた。播磨国白旗城に籠城した赤松則村(円心)と共に尊氏捲土重来を支えた最大の功労者と言えよう。 1338年に若狭守護斯波時家の加勢のため赴き、この頃に左衛門佐に任官された。1339年から1年余り備後守護として赴任。1341年から室町幕府引付頭人に就任。さらに、官途奉行も兼任し、1345年正五位下、1351年従四位下。直義の北国没落と同時に出家し「入道心勝」と称した。 1352年から1357年まで再び引付頭人を勤め、尊氏が鎌倉に在した時は足利義詮を補佐し、幕府の宿老として評定衆筆頭にまで昇りつめた。1361年に若狭守護を兼任したが、同族の斯波高経と対立。1363年8月にすべての役職を罷免された。 しかし高経失脚と共に復権、1370年から子の棟義を援けるため、奥羽に赴き1381年まで在国の痕跡を残す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石橋和義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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