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石田 正澄(いしだ まさずみ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。別名に重成。通称は木工頭。石田正継の子で、石田三成は実弟。参議院議員石田昌宏は正澄の子孫というが系譜は不明。 == 生涯 == 弘治2年(1556年)、石田正継の長男として誕生、織田信長の家臣だった羽柴秀吉が中国征伐を命じられた頃(天正5年前後)に、弟の三成と共に秀吉に仕官した。 天正11年(1583年)、近江国高島郡での代官に任じられ、文禄2年(1593年)から慶長4年までは堺町奉行であった。優れた民政家として秀吉から北近江に1万5,000石の知行を与えられている。後にさらに加増されて、河内国の蔵入地を与えられ、併せて2万5,000石となった。 同じ文禄2年(1593年)、従五位下・木工頭に叙位任官され、豊臣姓を下賜された。 文禄の役(1592年 - 1596年)では、いち早く九州に下向し、名護屋城に秀吉のための茶室を建設した。戦役中は物資を朝鮮半島に輸送する任務で活躍し、三成・大谷吉継・増田長盛ら奉行衆の報告を秀吉に取り次ぐ役目にもあたった。慶長の役(1597年-1598年)では、秀吉の奏者として伏見城に残り、木下吉隆と共に多数の書状を残している。また大村由己、藤原惺窩、猪苗代兼如、西笑承兌などの一流の知識人と交流を持ったとされる。 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは三成の西軍に与し、父の正継と共に佐和山城を守備した。愛知川に関を設けて畿内西国の領主の家康方への参戦を阻止し、諸軍勢を西軍にまわらせるなどの働きをした。しかし、関ヶ原で西軍が敗れた後に小早川秀秋らの軍に佐和山城を攻められる。正澄は大手門を守備し、幾度となく敵を退けたが最期は父や長男朝成と共に自害した。三玄院過去帳には、同年12月2日には次男主水正も殺されたとあり、あるいは自刃したと思われる。 生前に帰依していた圓鑑國師春屋宗園により、石田正澄と三成の位牌と供養塔が大徳寺の三玄院に建立されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石田正澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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