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石谷 頼辰(いしがい よりとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 == 生涯 == 美濃国の武将・斎藤利賢の長男として誕生。始め孫九郎と名乗る。弟に斎藤利三、実妹に斎藤氏(蜷川道標の妻)、異父妹に石谷氏(長宗我部元親の妻)がいる。 実母の再婚相手である石谷光政の婿養子となり、義父・光政と共に室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた。義昭が織田信長に京都を追われると、織田氏家臣の明智光秀に仕えた。信長と土佐国の戦国大名・長宗我部元親が四国の領有を巡って対立すると、光秀の使者として義弟の元親の説得に赴いたが、成功しなかった〔谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4642063234 P249より。〕。 その後、主君・光秀が本能寺の変を起こし山崎の戦いにて敗死したため、頼辰は妹の嫁ぎ先である土佐国へ落ち延びて長宗我部氏に仕えた。中央での経験を買われて重用され、その給地は四十四町にのぼり、娘は元親の子・長宗我部信親(頼辰の甥)に嫁いだ。 天正14年(1586年)12月12日、戸次川の戦いで女婿・信親と共に戦死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石谷頼辰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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