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石野 誠三(いしの せいぞう、1905年 - 没年不明〔「菅家紅葉氏談話 」、立命館大学、p.17, 2009年11月8日閲覧。〕)は、日本の撮影技師、編集技師である〔。 == 人物・来歴 == 1905年(明治38年)に生まれる〔。 満14歳を迎える1919年(大正8年)、撮影見習いとして日活関西撮影所に入社する〔。1921年(大正10年)には日活を退社して、大阪の沢田順介のサワタ映画製作所に入社している〔。1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所入社した〔。初任給は30円であったという〔「菅家紅葉氏談話」, p.24.〕。1925年(大正14年)には竜神虎彦監督の『何者?』前篇で撮影技師に昇進した。同年6月、牧野省三のマキノ・プロダクションが東亜キネマと分離し、御室撮影所を建設・開所するとマキノに移籍した〔。 移籍しての第1作は金森万象監督の『奇傑鬼鹿毛』で、同作以来、金森とのコンビを多く組んだ〔。大森伊八、三木稔(のちの三木滋人)とともに撮影部の重要なカメラマンとなる〔。1929年(昭和4年)に牧野の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)を所長に、名古屋に中部撮影所を建設・開所したときには、同所の現代劇部カメラマンに就任した〔。在籍中に女優の水谷蘭子と結婚した〔。 1931年(昭和6年)、マキノ・プロダクションが解散すると、大沢商会が製作した金森監督の『見よ! この先駆者を』という大阪の日本ゼネラル・モータースから受注した宣伝映画を撮影した〔「菅家紅葉氏談話」, p.28.〕。その後は大沢が設立したJ.O.スタヂオに移籍し編集技師に転向するが〔、翌1932年(昭和7年)、正映マキノキネマが設立されると同社に移籍した〔。 1941年(昭和16年)、満洲映画協会(満映)に入社、石野吉三郎と改名し、作業管理所技術班長、編集係主任を歴任した〔。同時期、『日満華競技大会』等のドキュメンタリー映画をマキノ出身のカメラマン大森伊八と組んで、監督している〔啓民映画作品データベース 、''m-omura.com/masa'', 2009年11月8日閲覧。〕。第二次世界大戦終戦まで満映に在籍した〔。 戦後は、山口シネマに入社、日本中央競馬会の専属撮影技師としてパトロールフィルムの撮影を務めた〔。マキノ・プロダクションのOB会「マキノ旧友会」の設立に寄与した〔「菅家紅葉氏談話」, p.6.〕。それ以降の消息、死去時期等は不明である〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石野誠三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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