|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) ・ 黒 : [くろ] 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark ・ 一 : [いち] 1. (num) one
石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日〔漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.22。〕(1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。 ==経歴== 丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。 1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。1888年(明治21年)、井上馨の条約改正交渉に反対するボアソナードの意見書を秘密出版した容疑で、星亨とともに禁固1年の判決を受けたが、翌年の大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放された。 岡山市会議員を経て〔『新選代議士列伝』金港堂、1902年〕、1898年の第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。 他に岡山商業会議所特別会員を務め〔、1886年(明治19年)には山陽英和女学校(現在の山陽女子中学校・高等学校)を創設した〔学校法人山陽学園 沿革 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石黒涵一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|