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砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年9月15日 - 1957年12月27日)は、日本の政治家。1955年、自由民主党結党時の防衛庁長官。 == 来歴・人物 == 愛媛県生まれ。1904年東京法学院(現・中央大学)を卒業後、司法官補を経て、弁護士を開業する。1920年に立憲国民党から旧兵庫1区にて衆議院議員に初当選。以後当選10回。犬養毅に師事し、立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会と渡り歩く。犬養内閣にて農林政務次官に就任。犬養亡き後は、政務次官時代に大臣として仕えた山本悌二郎派に身を寄せる。1936年より選挙区を兵庫県から出身地の愛媛県に鞍替えする。1937年には宇垣一成首班工作に携わった。政友会幹事長(1938年~1939年)を経て、1939年の政友会分裂では鳩山一郎を支持して久原派に所属する。 政党解消後は大政翼賛会に入り、議会局審査部長などを務める。1942年には中央政界を離れ、南方軍軍政顧問としてシンガポールに赴任する。戦後は公職追放期間を経て、1952年に旧愛媛2区から自由党から当選し復活を果たすも、翌1953年には落選した。1955年には日本民主党から当選し、三木武吉の要請で党国会対策委員長となる。同年第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。 自民党では河野一郎派の客分格であったが、後輩の風下に立つのは潔しとしなかったのか、かなり金銭的に無理をして「砂田派」(宜軒会)を立ち上げた。傘下には池田正之輔・浜野清吾らがいたが、すぐに亡くなったため、砂田派の存在が数えられないことが多い。また晩年には全国戦争犠牲者援護会会長を務め、千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んでいた〔〕。 1957年12月27日、心臓麻痺のため73歳で死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁〕。地盤は長男の砂田重民が引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「砂田重政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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