|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 砥石 : [といし] 【名詞】 1. whetstone 2. grindstone ・ 石 : [こく, いし] 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) ・ 崩れ : [くずれ] 【名詞】 1. crumbling 2. collapse 3. ruin
砥石崩れ(といしくずれ、戸石崩れ)とは、天文19年(1550年)9月に信濃国小県郡(長野県上田市)の砥石城(戸石城)において、甲斐国の戦国大名・武田晴信(信玄)と北信濃の戦国大名・村上義清との間で行われた合戦。 == 背景 == 戦国時代の信濃・甲斐においては、甲斐国で守護・武田信虎による国内統一が達成され、信虎は天文4年(1535年)9月に信濃国諏訪氏と同盟を結んだ。信虎は信濃では村上義清とも同盟を結ぶと、天文10年(1541年)5月25日には武田・諏訪・村上三者の同盟により信濃佐久郡・小県郡へ侵攻し、海野平合戦において滋野一族を上野へ追放する。天文10年(1541年)6月14日には信虎の嫡男・晴信(信玄)により信虎は駿河今川氏のもとへ追放され、晴信が家督を相続する。晴信は信虎の外交方針を転換し、天文11年(1542年)には武田氏・村上氏に断りなく関東管領・山内上杉氏と和睦し領地を割譲した諏訪頼重との同盟を手切とすると、頼重を滅ぼし信濃諏訪郡を領国化した。 晴信はその後も信濃侵攻を本格化させ、信濃守護で林城主の小笠原長時や信濃国衆・村上義清・関東管領の上杉憲政らと敵対する。天文19年(1550年)7月には小笠原長時を信濃中南部の大半を制圧した武田晴信は、いよいよ信濃北部・東部の平定を目指して同年9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した。晴信は天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、村上氏の東信濃における防衛線が大きく後退するため、戦略上も戦術上も重要な戦いでもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「砥石崩れ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|