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磨甎庵劫石 : ミニ英和和英辞書
磨甎庵劫石[こく, いし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いおり]
 【名詞】 1. hermitage 2. retreat 
: [こう, ごう]
 【名詞】 1. threat 2. long ages
: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 

磨甎庵劫石 ( リダイレクト:白田貴郎 ) : ウィキペディア日本語版
白田貴郎[しろたたかしろう]

磨甎庵劫石<ませんあん ごっせき>(本名:白田 貴郎<はくた たかお>)、1915年7月10日 - 2009年2月11日)は、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師人間禅第三世総裁。
倫理学学者。千葉大学名誉教授。聖徳短期大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。
== 来歴・人物 ==
1915年7月10日 東京に生れ、隅田小学校に学ぶ。
1932年東京府立第七中学校4年修了後、府立高等学校文科甲類に進学。
在学中野球部に入り、練習で体調を崩して結核となり、人間の死について疑団をもち、これを決着しなければ、人生は砂 上の楼閣となると考え、経済学部への進学をやめて、東大和辻哲郎教授につき、哲学を学ぶことを決意。
1035年 東京帝国大学文学部倫理学科に進学。
在学中、講師長屋喜一先生より両忘協会のことを教えられ、耕雲庵英山老師の講演「科学と宗教」を聴き、感動して「明徳会」に入り、の修行をはじめる。
1937年耕雲庵老師に入門 
1938年東大卒業。文部省教学局に勤務し、日本精神作興の仕事に携わる。
1940年耕雲庵老師より、劫石の道号を授与される
1944年千葉高等園芸学校講師となる。
翌年、護法のため、耕雲庵老師の山梨県清里村への疎開に家族とともに参加。過労と栄養失調にて結核を再発し、下山療養。親戚の柴沼直東京教育大学学長のすすめにて復職する。
1949年 新制千葉大学発足とともに、文理学部助教授となる。
当時、居を市川の本部道場に移し、機関紙『人間禅』の編集をなし、宗教法人『人間禅』発足の仕事を手伝う。
1954年 磨甎庵の庵号を授与される。
1957年 千葉大学文理学部教授となる。
1958年 人間禅、師家分上の印可を得。阪神支部担当の師家に補任せられる。
1960年より房総支部の担当師家 1962年より岳南支部の担当師家を兼務
1962年千葉大学評議員となり、理科系中心の千葉大学の人文・社会系学部の拡充と、1960年安保改定に伴う学園紛争の対策の仕事に取り組む。
1968年千葉大学文理学部が教養部と人文学部に改組されて、人文学部教授なる。(1981年千葉大学人文学部が文学部と経済学部に更に改組)
1970年安保をめぐり、東大・日大を中心に全国の大学が学園紛争の嵐に巻きこまれ、千葉大学も自衛官通入学問題で本部が学生に封鎖され、研究・教育機能停止し、学長が辞任する事態となり、その収拾に当る。
1972年千葉大学人文学部長となる。
国立大学協会第一常置委員会の専門委員や、基準協会の学制研究会の委員となって、地方大学の研究・教育の拡充の仕事に取組む。
1977年人間禅教団総裁第三世となる。
1981年千葉大学を定年退職。千葉大学名誉教授となる。
両忘庵老師が将来の事業と考えられた女子教育の実際と私立の学校運営の実態を学ぶために、聖徳学園短期大学に勤務する。
1988年聖徳短期大学名誉教授となる。
1996年人間禅総裁の職を退き、名誉総裁となる。
叙  勲
1988年勲二等瑞宝章

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「白田貴郎」の詳細全文を読む




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