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磯田 憲一(いそだ けんいち、1924年6月10日 - 2002年12月17日)は、広島県出身のプロ野球選手。ポジションは主に二塁手。 == 来歴・人物 == 広島商業学校では「幻の甲子園」と呼ばれる1942年の全国中等学校野球大会に主将として出場〔早坂隆 『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』 文藝春秋(文春文庫)、2012年、157頁。〕。広島商業から明治大学へ進学し、コロムビアを経て、1950年に誕生した地元のプロ野球チーム広島カープへ入団〔カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P42〕。球団結成披露式では石本秀一監督から「地元が生んだ天才内野手」と紹介された〔。しかし、身長160cmと小柄な体だったため守備力はあったもののバッティングの力には欠けていた為、石本監督からバントの練習を常々指示され、その後広島のバントの名手として活躍する〔。守備でも一塁とバッテリー以外のポジションを全て守ったユーティリティープレイヤーだった〔。1955年10月20日の中日ドラゴンズ戦では長谷川良平の30勝目がかかっていた試合で延長14回裏に代打で出場し、見事センター前にサヨナラヒットを打ち、長谷川に30勝目をプレゼントした〔。この勝利で長谷川は大友工と並んで最多勝を獲得。長谷川は「彼なしでは僕の30勝はなかった」と感謝していた〔。1957年に引退したが、7年間で63の犠打を成功させ、スクイズバントを一度失敗したが、それ以外のバントを外したことは一度もなかった〔。 引退後は球団職員、電電中国の監督を務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「磯田憲一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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