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神代 長良(くましろ ながよし)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。肥前三瀬城主。 == 生涯 == 天文6年(1537年)、山内二十六ヶ山惣領である神代勝利の嫡子として生まれる。初名は父の1字を取って勝良(かつよし)といった。父と同じく少弐氏の家臣として仕えて龍造寺隆信と戦った。永禄7年(1564年)に父が隠居したため、家督を継いで当主となる。 隆信とは永禄5年(1562年)に、長良の娘・初菊を隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)へ嫁がせることで和談に至っていたが、永禄8年(1565年)3月に父が病没、また4月に長男・長寿丸(千寿丸とも)と初菊が揃って疱瘡を患い死去すると、それを好機とばかりに隆信勢が居城の千布城へ攻めてくる。不意を突かれた長良は筑前国へ逃れた。しかし、大友家臣である鷲岳城主の大鶴宗周を頼ると、戸次鑑連(後の立花道雪)・大友宗麟と知遇を得られた。そして、同年8月20日、旧臣の援けと原田隆種らから得た加勢の300騎をもって山内への復帰を果たせた。 翌年、長良は昨年の恨みを晴らすべく、干ばつの最中であった納富信景の領地の水源を断ち、不審に思い現れた信景の嫡子・納富信純(のぶずみ:信澄とも)〔『北肥戦誌』等の一部史料では弟・義弟などともされている。〕とその手勢を伏兵にて討ち取った。 その後は大友氏に属し、隆信の居城・村中城攻めに参加、今山の戦いでは家臣数名が討たれている。元亀2年(1571年)、隆信が少弐・大友の領地を攻めるべく出陣している留守を突かんと出陣、これを聞き付けた納富信景と戦った後に和睦、以降は龍造寺家臣となり、小河信俊の子(隆信の義弟である鍋島直茂の甥)である家良(いえよし)を養子として迎えている。天正9年5月28日、三瀬城にて病死した。享年45。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神代長良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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