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神吉 宏充(かんき ひろみつ、1959年3月1日 - )は、将棋棋士。2011年、引退。内藤國雄九段門下。棋士番号は160。兵庫県加古川市出身。 将棋界きってのエンターテイナー〔「将棋世界」2000年1月号付録〕。所属事務所は昭和プロダクション。 == 棋歴 == 小学生の頃に将棋を覚え、中学生のときに本格的に指し始める〔平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)〕。そのきっかけは、おじさんに「ヨワ将」と呼ばれたこと〔。 1977年のアマチュア名人戦で兵庫県代表〔となる。全国大会では最年少の18歳であったが、ベスト4進出〔。角頭歩戦法を用いた勝局もあったという〔。 そして、1978年、内藤門下で奨励会に入会。入門前の約3年間は会社員だった〔思い出シネマ 私の一本(神戸新聞) 〕。1級での入会は1961年の若松政和(アマ名人戦優勝歴あり)以来17年ぶり〔。それから4年8か月経った1983年、四段昇段(プロ入り)を果たす。 オールスター勝ち抜き戦での本戦進出も数回あるが、最も活躍した棋戦は、一般の将棋ファンに対する露出度が最も高いNHK杯戦である。たびたび予選を通過し本戦出場した。 第44回(1994年度)NHK杯戦では、先崎学・加藤一二三らを破り準々決勝進出(準々決勝で米長邦雄に敗れる)。対・加藤戦では解説役で師匠の内藤も加えて局後の感想戦を行ったが、そのとき、謙虚ながらも偉大なる先輩に勝ったという感動を露わにした。加藤に「今日は強かった」と言われ喜んでいる姿を見た内藤に「対戦相手に強いと言われて喜ぶとアマチュアみたいだ」と指摘されるが、「今日はそれでもいいです」と言った。 第49回(1999年度)NHK杯戦では、青野照市と森内俊之に勝つ(この回の優勝者となる鈴木大介に3回戦で当たり、先手で持将棋となり先後入替の指し直し局で敗れる)。森内との対局の序盤では、神吉は定番の振り飛車穴熊にするが、それに対して森内は自分の飛車も振って、意表の相振り飛車戦に持ち込んだ。森内が飛車を振った瞬間、「それはないやろ、森内君」という神吉のささやくようなぼやきが、テレビの音声に入っていた。またサービス精神旺盛な神吉は森内に勝った後の感想戦ではカメラに向かってガッツポーズを決めていた。 順位戦での通算成績は、81勝89敗である。C級2組からC級1組に昇級することはなかった。17年間(第43期・1984年度 - 第59期・2000年度)の中で最終局まで昇級争い絡むことはなく、最高成績は3度の7勝3敗である(第43期・第49期・第55期)。うち、第55期の勝ち越しは降級点を2つから1つに減らしたものであった。しかし、第59期(2000年度)で降級点を累積3点としてしまい、フリークラスに降級した。 2005年8月、瀬川晶司のプロ編入試験第2局の試験官(対戦相手)を務める。対局前に「振り飛車穴熊戦法」と戦法予告をし、全身ピンクのスーツ姿で対局に臨み、対局前に瀬川に対して、「(目が)チカチカするやろ」と言っておどけてみせる。また、対局中に(対局当事者であるにも関わらず)大盤解説場に登場して情勢についてコメントするなどのパフォーマンスを見せた。結果は瀬川の勝利。対局終了後、「プロ棋士になれる」と瀬川を励まし、勇気づけた。 第18期(2009年度 - 2010年度)銀河戦で、ブロック戦で4連勝し、決勝トーナメント進出(1回戦で丸山忠久に敗れる)。 2010年度をもってフリークラス陥落から10年を迎えた。そして、2011年6月1日、第24期竜王戦6組昇級者決定戦1回戦で牧野光則に敗れたのが最終対局となり、同日付で引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神吉宏充」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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