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神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)は、伊勢神宮の公益事業であり、神宮の宗教法人としての規則である神宮規則第63条によると、「神宮の由緒並びに日本文化の変遷を徴する資料を陳列保存して一般の観覧に供する外産業の振興発展に資する事業を行い、文化の向上を図るを目的」とし、神宮崇敬の歴史および日本の文化を展示する「歴史と文化の総合博物館」〔『お伊勢まいり』(神宮司庁編、伊勢神宮崇敬会発行、平成18年7月1日改訂7版第1冊)28ページ 『神宮徴古館について』 (伊勢神宮)〕である。 付随する神宮農業館(じんぐうのうぎょうかん、農業館とも)は同規則の第63条によると、「農業、水産、林業等に関する資料を陳列保存して一般の観覧に供する外産業の振興発展に資する事業を行い、文化の向上を図るを目的」とし、「自然の産物がいかに役立つか」を主題とし〔『お伊勢まいり』(平成18年7月1日改訂7版第1冊)29ページ 『神宮農業館』 (神宮の博物館)〕、伝統的な稲作などに関する物品の収集保管、展示公開を行なっている。 敷地内には芸術家から伊勢神宮へ奉納された作品を収蔵・展示するための式年遷宮記念神宮美術館(しきねんせんぐうきねんじんぐうびじゅつかん、美術館とも)もある。同規則の第63条の2によると、「神宮美術館は、式年遷宮ごとに当代一流の美術品を収集及び保管展観するとよもに、わが国の美術工芸を研究し、日本文化の発展に資するを目的とする」。 現在の建物は、徴古館が1953年(昭和28年)に〔、農業館が1996年(平成8年)に復元されたものだが、1909年(明治42年)の開館当初のものとは一部異なる。 == 沿革 == === 草創期 === 1886年(明治19年)、伊勢神宮周辺の整備を目的に有栖川宮熾仁親王を総裁とする神苑会(しんえんかい)が結成された。 この神苑会は農事促進を目的として1891年(明治24年)に外宮前に農業館を設立、日本初の産業博物館となった。 農業館は迎賓館や奈良国立博物館で知られる片山東熊による設計である。平等院鳳凰堂をモデルとした和洋折衷の農業館は、片山の作品としては数少ない木造建築となった。 神苑会は外宮と内宮のほぼ中間となる倉田山に約39,000坪(約129,000 m2)の土地を購入した。 1903年(明治36年)に歴史博物館として徴古館設立を企画した。 日露戦争開戦により計画は延期されたが、1904年(明治37年)8月には増築を伴う倉田山への農業館移築を開始、翌1905年(明治38年)の移築完了後に農業館は伊勢神宮へ奉納された。 1906年(明治39年)11月に農業館と同じく片山の設計による徴古館の建設を開始、1909年(明治42年)5月に完成し、同年9月29日に日本初の私立博物館として開館、1911年(明治44年)4月に周辺の土地を含め伊勢神宮へ奉納された。天皇の行幸を想定した外宮-内宮間の自動車道を整備するために倉田山は大幅に開削され、1910年(明治43年)3月に御幸通り(現在は御幸道路と呼ばれる。1920年(大正9年)から1952年(昭和27年)まで国道1号、現三重県道37号鳥羽松阪線)が開通した。 神苑会は1911年(明治44年)12月、神宮周辺の整備を達成したとして、徴古館の入り口に神苑会記念碑を作り解散した。のちの1919年(大正8年)に御幸通りの東側に皇學館大学が、1925年(大正14年)には内宮前の宇治舘町から神宮文庫(じんぐうぶんこ)が移転している。 徴古館は和洋折衷の農業館とは趣を異にし、ベルサイユ宮殿を模した前庭を持つルネッサンス式の西洋風建築とされ、東京国立博物館の表慶館同様、正面中央にドームを配した高い屋根を持つ鉄筋コンクリート造の平屋となった。中央奥には貴賓室が配され、皇太子時代の大正天皇・昭和天皇をはじめ、各宮家の皇族などの要人が神宮に参拝するときの休息場所として利用された。1910年(明治43年)、当時皇太子であった大正天皇が11月14日に外宮内宮を参拝したのちに徴古館を訪れ五葉松を植樹している。1940年(昭和15年)7月にはラストエンペラーとして知られる満州国皇帝溥儀も訪れた。 1923年(大正12年)11月5日には徴古館の西側に倭姫命を祀る倭姫宮が創建された。倭姫宮の例大祭などでは、崇敬団体の御杖代講(みつえしろこう)などによる茶の振る舞いなどが徴古館の敷地で行なわれる。 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月にアメリカ軍の宇治山田空襲により炎上し、建物は外壁を残すのみとなり、収蔵品の大部分は焼失した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神宮徴古館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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