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神慈秀明会 : ミニ英和和英辞書
神慈秀明会[しんじしゅうめいかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [じ]
 【名詞】 1. love 2. affection (for) 3. pity 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

神慈秀明会 : ウィキペディア日本語版
神慈秀明会[しんじしゅうめいかい]

神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)は、日本の宗教法人の名称である。
「神」は教団での表記は旧字体だが、登記上は新字体を使用している。
== 概要 ==


同教団は世界救世教から、昭和45年(1970年)3月1日に独立したことで生まれた。すなわち、世界救世教の分派教団である。独立前の前身は、世界救世教の一所属団体であり、当時の世界救世教内で最大の教会であった世界救世教秀明教会(せかいきゅうせいきょうしゅうめいきょうかい)である。そのため、法人の登記上の設立日は1952年9月9日になっている。
神慈秀明会の教祖は、世界救世教の教祖である岡田茂吉である。また、この教団の立教者(開祖)は、世界救世教秀明教会の会長であった小山美秀子である。小山美秀子は、神慈秀明会の立教をしたものの、自身は教祖とはならず、立教時にはすでに死去していた岡田茂吉を、神慈秀明会の教祖として立てた。
この教団は、世界救世教の分派教団の中では最大規模の団体であり、公称信者数は35万人とされている〔真光系諸教団を世界救世教の分派とみなした場合は、最大規模の分派は崇教真光になるだろう。ただし、真光系諸教団は岡田茂吉を教祖としておらず、教義は世界救世教の影響を強くうけてはいるものの、独自のオリジナルな教義と公言しており、分派としての関係性は低い。〕。
本部は、滋賀県甲賀市信楽町。山中に約30万坪以上の境内を有する。この境内のことを神苑(みその)と呼ぶ。神苑内にはミノル・ヤマサキの設計した、富士山型の礼拝堂ホール(教祖殿)と、イオ・ミン・ペイ(I.M.ペイ)の設計した三味線の形のベルタワー(カリヨン塔)があり、秀逸な建築物として有名であり、興味も持たれるのだが、神苑敷地内は原則として信者のみが立ち入り可能であり、地域の住民や一般人が自由に見学できるようにはなっていない。また、神苑の近接地に「MIHO MUSEUM」という美術館を建設しており、こちらは一般人に教団所蔵の美術品を公開している。詳細は#建設の節、ならびに、MIHO MUSEUMの項目を参照。
基本的な教義は、世界救世教のものを継承している。
継承している基本的な教義とは、神道形式を踏襲した祭祀や礼拝の方法、教祖である岡田茂吉を、神と人の融合した姿・神人合一の存在として精神的支柱に据えている事、浄霊という手かざしの宗教儀式を行う事、教義上、美術、芸術鑑賞を重要視している事、自然農法という、教祖考案の農業を推奨する事などである。
さらに神慈秀明会は、世界救世教を敵視する教義(離脱の神意)も別途有している。この教義によると、神慈秀明会は、世界救世教ほか他の分派教団を、教祖の教義に沿っていない間違った道を進んでいるとし、他教団を認めず、神慈秀明会の離脱だけが唯一正しい離脱であり、神慈秀明会だけが唯一の正当な教祖の後継団体であると主張している。また、唯一選ばれた団体であるという自負が、この教団の活動の重要な原動力となっていた。
だが現実的には、この教団は岡田茂吉教祖の記した教義のうち5%にも満たない量しか信者に公開しておらず〔新伝道の手引き第一部(ISBN 4-9900003-0-7)の解説書、2ページに、「御教え(#岡田茂吉の教義)は、四百字詰原稿用紙換算で約1万7千枚もあります」と記されている。これを単純に文字数にすると、6,800,000文字となる。神慈秀明会の#聖教書は、33文字×15行×442ページで、単純に文字数にすると、218,790文字である。これを割合に換算すると、3.2%程度となる。〕、教祖に関する資料なども他教団に比べ著しく乏しい。その結果、信者は教祖の経歴や評伝、思想や功績などをあまり知らない。また、教団は教義の詳細な内容部分においても、教義に沿わない独自の解釈や方法を多く採用している。そのため、神慈秀明会独自の教義や活動内容や、思想、価値観には、教祖による教義上との問題点や矛盾点が多く発見されており、現在においては、唯一正統な後継団体という主張には教団内外から疑問をもたれている。詳細は#離脱の神意の節を参照。
これらの事は、神慈秀明会が岡田茂吉を教祖としながらも、実際には岡田茂吉の影響が薄弱な教団であることを物語っている。そしてこの教団には、その特徴形成において教祖以上に多大な影響力を発揮した人物が別に存在する。それは、強力なカリスマ性と強い布教指導力を持った、教団開祖小山美秀子会主や、小山荘吉前会長らである。
教団は会の創始者である小山美秀子を、神に選ばれた特別かつ絶対的な存在であるかのごとく事実上位置づけており、教団において小山美秀子の信仰的教導は、教祖の教義以上の影響力を有していた。しかし実際には、小山美秀子はキリスト教の影響を強く受けており、岡田茂吉教祖の教義とは大きく異なる信仰観の持ち主であった。また、小山荘吉前会長の信仰的教導をみると、教祖の教義への知識が著しく欠落していたのだろうと思われるものが散見される。
そのため、小山美秀子、小山荘吉らの宗教的教導を比較検証してみると、岡田茂吉教祖が説いた教義や思想と大きく矛盾していたり、正反対の教えも多かった。だが、前述の通り教義の大部分が非公開である上、離脱の神意の教義のため教祖の教えを有する世界救世教に近付くことが出来なかったため、神慈秀明会の信者らは、小山美秀子、小山荘吉たちの教導と教祖の教義とを比較検証するすべを持たず、教祖のあらゆる弟子たちの中で、唯一小山美秀子や小山荘吉だけが、教祖の教えを正しく説くことが出来るとする教団のふれこみをそのまま信じるしか無かった。
そんな、小山美秀子会主、小山荘吉前会長による強力な統率の元、急激な発展を遂げた同教団は、世界救世教からの独立後、時間がたつごとに徐々に教祖の影響が薄れてゆき、教団はいわば小山家流とも言えるような独自の方向に大きく塗り替えられ、教祖の影響が強い他の世界救世教系教団とは異質な教団に変化していった。詳細は#会主信仰の節を参照。
そして、小山家流の文化や思想に塗り替えられた神慈秀明会は、後に内外から多くの批判を浴びる旧体制と呼ばれる時代を生み出すことになる。
旧体制とは、1970年の独立から1996年末までをさす。この時代に神慈秀明会は、会主、会長の強力なカリスマ性と布教指導力の元、教団に入信することで起こるようになるとされる 奇跡、奇瑞を宣伝の要として、「あなたの健康と幸せをお祈りさせてください」という声かけや、路上や駅前での手かざし(浄霊)などで当時有名になった活発な布教活動を行うことで信者数を大幅に増やし、本部境内(神苑)や美術館等の大規模な建設も行い、その建設の資金源となる献金の積極的な推進などを信者らに行った。
この時期に同教団は大きな発展を遂げたが、活発が行きすぎて過激化、非常識化した布教活動や献金活動が、報道などには至らなかったが様々な社会問題を水面下でおこしていた。1996年末、秀明会某拠点における非常識な活動が、偶然にもある外部の有力者に漏れてしまう。これが当時竣工間近だったMIHO MUSEUMにとって重大な問題に発展してしまう。その問題解決のために二代目である現会長、小山弘子により、それまでの体制が急遽変更されることとなる。1997年からの新体制以降は、社会問題の原因になりがちだった、過激化した布教活動や献金活動などを制限、活動は全盛期に比べかなり沈静化した。
しかし、教団活動の沈静化にもかかわらず、この教団に対するネット上などでの批判はいまだに活発である。それは、多数の被害者を出したとされる旧体制に対して、会として責任の所在を明確にしておらず、正式な謝罪や補償などをしていないこと。教団は旧体制時代の存在を、反省すべきものとしてとらえるどころか無かったこととして黙殺しようとしていること。そのため、一部の個人や拠点においても旧体制の反省が無く、旧体制時代式の行動(外での浄霊実践やノルマ設定や強力な献金活動)をいまだに改めない者がおり、教団としてもそういうものに注意を促す体制が無いこと。さらには、立教の意義を説く教義である離脱の神意に発見された、教義の根本を覆すような多数の重大な虚偽や、旧体制時代に行われてきた教導が、教祖の教義と多数の矛盾を有している事などに対する説明責任を全く果たしていないなどのさまざまな理由からである。詳細は#旧体制から新体制への節を参照。
現在の神慈秀明会は、布教を行っていないため信者の増加はほとんどみられないばかりか、教師職や職員を含む有力な古参信者らの退会や、教祖が本当に説いた教えを求めての世界救世教系他教団への改宗者の続出、一般信者の活動意欲の低減化などが近年の傾向としてみられる。
神慈秀明会の教団施設建設において、住民からの反対運動が時々発生している。1995年の長野県松本市における最初の建設反対運動において、反対運動が功を奏し、建設阻止にいたったドキュメンタリーは、後に書籍として出版〔護られた街編集委員会 編 『護られた街 実録 カルトは防げる撃退出来る』 ISBN 4-9980905-1-8〕され、神慈秀明会に限らないさまざまなカルト宗教の建設反対運動における参考書として活用されている。2005年に神奈川県横浜市青葉区に発生した施設建設反対運動〔集会所建設反対運動(横浜市青葉区) 〕は教団の施設の建設阻止に成功したが、2006年に発生した神奈川県横浜市戸塚区内における横浜集会所の建設においては、住民の反対署名を5000名以上集めた建設反対運動〔東戸塚・集会所建設反対運動(横浜市戸塚区) 〕が行われるも、教団は建設を強行し、2007年に施設は完成した。2007年には、山口県周南市において、住民の反対署名を4000名以上集めた集会所建設反対運動が行われ、教団は建設を断念した。〔神慈秀明会の建設反対運動を行っている周南市議会議員長谷川かずみのホームページ〕2008年現在、宮崎県宮崎市において、11000人もの署名を集めた集会所建設反対運動が進行中である。〔宣言:神慈秀明会集会所建設に反対します
2006年には、大阪国税局の税務調査を受け、相続税など計約16億円の申告漏れの指摘や、施設工事に絡んだ1億円の不正なお金の流れなどが、朝日新聞をはじめとして全国的に取り上げられたことより、教団創始者の一族である小山家が、信者の自己犠牲(#自己放棄)による献金から50億円近い個人資産を形成していたことが発覚し、新たな批判を受けている。詳細は、#報道の節を参照。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「神慈秀明会」の詳細全文を読む




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