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神戸事件(こうべじけん)は、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。 この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。 == 事件の発端 == 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。 1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとした〔事件の発端について諸説あることは、参考文献『検証 神戸事件』冒頭「誤り多い伝承」が、『兵庫県史』『兵庫県警察史』『神戸市史』『西宮市史』『岡山県史』を比較検討している。西国街道沿いで複数のトラブルがあり、そのうちどれを伝えたかで複数の説が生じたのであろう。〕。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった〔ドイツ公使ブラントは、事件翌日の5日までに、「その間にわれわれは、われわれを襲撃した備前の部隊に関する情報を収集したが、それによってこの部隊はすでに兵庫、神戸を通過する道すがら、行き交う外国人すべてに侮辱的な行動をとり、いろいろな外国人が威嚇されたなかで二人は槍で突かれて傷を負ったということが確認された。このことによって事件は一段と険悪な様相を呈することになったのである。」と回顧する。他の公使たちと情報共有化するなかで、西国街道沿いの複数の小競り合いの存在が確認できたものと思われる。参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』136頁。ミットフォードもブラントのこの証言を自分の著書に翻訳掲載している。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』122頁「第4章.内戦と備前事件」、(長岡祥三訳、講談社学術文庫、1998年)。〕。 これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度〔参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』134頁によると、一斉射撃は「六、七回」であった。〕一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした〔黒色火薬を用いた当時の小銃の照準特性については、兵頭二十八著『有坂銃』(四谷ラウンド、1998年) 62~64頁、(光人社NF文庫、2009年)63~66頁を参照。福沢諭吉が翻訳した当時の射撃教範『雷銃操法』(慶應義塾編纂『福澤諭吉全集 第二巻』岩波書店、1959年)も参照。〕。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない〔殺意のある射撃との主張は、ミットフォード (1915年) が最右翼である。Francis Ottiwell Adams (1875年) も、同じ趣旨を記す。一方、ドイツ公使ブラント (1901~1902年) は、「アメリカ軍艦の見習い水兵とほかに一人の外国人とが軽傷を負っただけであった。これは幸運だった。日本兵が銃をかなり上に向けて射撃したためである。彼らは税関の上に翻っていたアメリカ合衆国、イタリア、北ドイツ連邦のそれぞれの国旗を狙ったものらしく、少なくとも北ドイツ連邦の旗にはたくさんの弾痕があった」と述べ、威嚇射撃説に近い叙述を残している。一方、同じブラントは、新政府から出された瀧善三郎の助命嘆願に対する態度を協議した公使会議では、「たまたま神の恩寵によって死者が出なかったからといって、それが減刑の理由となるわけのものでは決してない。殺意は疑いもなくあったからである」との態度を示した。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』、同 The History of Jpaan, Volume2、同『ドイツ公使の見た明治維新』134、142頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神戸事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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