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神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、英語:Holy Roman Empire , , , 800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家〔〔。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」()である〔TeutscherはDeutscherと同じ意味を持ち、後年にはHeiliges Römisches Reich Deutscher Nationという表記もなされた。〕〔1804年の皇帝称号変更命令では「ローマ=ドイツ帝国」()、1806年8月6日の神聖ローマ帝国の解散詔勅では「ドイツ帝国」()とも表現される。ただし皇帝の称号は終始神聖ローマ皇帝()を名乗った。〕。 大空位時代に諸侯の台頭を許し、ヴェストファーレン条約でフランスに領土を割譲した。以後、その体制は諸領域の連合体に近いものになっている。とはいえ、右にアニメ化されている版図に限られない国際的影響力を誇った。カール5世のときにイングランド王家と閨閥をつくったほか、ヴァチカン公認の中世大学を版図の外にも複数抱えた。版図消滅後は、財政基盤をロスチャイルドに残すかたわら、多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。 諸侯でも特にハプスブルク君主国は事実上の帝国とみなされた。それはメディアを掌握した。宗教改革から続く帝国郵便をルドルフ2世は1597年に公認して領邦郵便を禁じた。しかし、君主国の郵便は堂々と営業した。〔菊池良夫 『ハプスブルク帝国の情報メディア革命 近代郵便制度の誕生』 集英社 2008年 pp.122-127.〕〔スウェーデンなどを引き連れたプロイセンからの圧力を受けて、レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝) は1666年に領邦郵便を認めた。〕ゲラルド・ファン・スウィーテンはイエズス会の検閲制度を段階をふみ、やがて完全に帝国のものへ転化した。その過程ではモンテスキューによる『法の精神』が発禁解除となった。〔菊池良夫 『検閲帝国ハプスブルク』 河出書房新社 2013年 pp.145-159.〕帝国郵便は新聞の流通を掌握し、検閲網となった〔前掲書 菊池2008年 p.158.〕。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった。 ==概要 == 日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している〔たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。〕。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である〔シュルツェ(2005), pp. 15-49。〕。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。 帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった〔菊池(2003),pp.48-49〕〔。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)〔。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々教皇庁に介入していた。だが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった〔。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている〔。 1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ〔 シュルツェ(2005), p. 76。〕。14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった〔。マクシミリアン1世治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる〔。 16世紀のカール5世の治世に始まった宗教改革によって帝国はカトリックとプロテスタントに分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。また、カール5世はセバスチャン・カボットを投獄していたので彼を離反させてしまった。 ハプスブルク家の所有した官僚制はフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)が再編成し多様化させた。その頂点に枢密顧問会議デア・ゲハイメ・ラートが置かれた。この最高機関は、ドイツ各地が甚大な被害を受けた三十年戦争のさなかにあっても皇帝の意見よりオーストリア王朝の利益を優先した。議員には常にボヘミア人がいた。会議はヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツにより枢密院ディ・ゲハイメ・コンフェレンツへ刷新されて、レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)の政治判断を左右した。〔『バロックの王国 ハプスブルク朝の文化社会史 1550-1700年』 慶応義塾大学出版 2013年 pp.138-141. :原書 R. J. W. Evans ''The Making of the Habsburg Monarchy 1550-1700'' 1979〕 1648年にヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立した〔。 枢密院以外では軍が強かった。官房間では政治闘争が繰り返された。会計局は、自由都市の経済と、戦中でも豊かなボヘミアからの収入を完全管理した。大トルコ戦争の後は、解放域の開発・通商による収益を誰にも掠め取られることなく帝国宝庫に納めた。こうした財源は軍事費につぎこまれた。宮廷軍事局の指令は法律同然であり、辺鄙な村落すら軍規に従わされた。〔その後スペイン継承戦争に備えてプロイセンに兵力を頼ることになった。諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った〔ウィルスン(2005),pp.110-110〕。オーストリア継承戦争をきっかけに外交革命を果し、ついにプロイセンと7年戦争で相対する。 19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスに従属するライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神聖ローマ帝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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