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神貞王后(しんていおうこう、嘉慶13年12月6日(1809年1月21日) - 光緒16年4月17日(1890年6月4日))は、李氏朝鮮末期の王族。第24代朝鮮王憲宗の実母でその父孝明世子の正妻。また第26代朝鮮王高宗の養母。 憲宗が即位後、父の孝明世子に翼宗の廟号を追贈したことにより、神貞王后も王后になった。また大韓帝国創建後、養子の高宗から皇后も追贈された。正式な諡号は、孝裕献聖宣敬正仁慈恵弘徳純化文光元成粛烈明粋協天隆穆寿寧禧康顕定徽安欽倫洪慶泰運昌福熙祥懿謨睿憲敦章啓祉景勳哲範神貞翼皇后である。歴代の朝鮮王后の諡号の中で最も長い。実家は豊壌趙氏で、父は趙万永(豊恩府院君)、母は徳安府夫人宋氏。高宗が即位する際、高宗の実父興宣大院君とともに高宗擁立に大きな役割を果たした。 ==生涯== 嘉慶24年(1819年)、純祖の王世子だった孝明世子と結婚し、世子嬪になった。 しかし道光10年(1830年)に夫の孝明世子が死去した。道光14年(1834年)の純祖の薨去に伴い、子の憲宗がわずか7歳で即位し、王大妃になった。最初の7年間は姑で憲宗の祖母にあたる純元王后が垂簾聴政を行ったが、憲宗が15歳になった年に親政を開始した。しかし憲宗は後嗣なしに道光29年(1849年)に22歳で薨去した。憲宗の死後、純元王后は実家である安東金氏の権力を維持するため、豊壌趙氏一派が新王を擁立する前に、江華島に配流されていた憲宗の再従叔父にあたる元範を宮廷に呼び入れ、徳完君に冊封した。さらに純元王后は徳完君を自分と純祖の養子にした上で、同年6月9日、徳完君は昌徳宮において19歳で朝鮮王に即位した。純元王后が神貞王后に代わって新たな大王大妃になった。そして純元王后は哲宗が政治に対する知識がなく、年も若いという理由で垂簾聴政を再び始めた。哲宗はその3年後に親政を開始したが、一切の権力は勢道政治勢力である安東金氏に握られたままだった。 純元王后が咸豊7年(1857年)に死去すると、神貞王后は再び大王大妃の称号を手にした。同治2年(1863年)に哲宗も後嗣なしで薨去すると、当時大王大妃で朝鮮王室の最高大人だった神貞王后は李応(後の興宣大院君)と謀議して、李応の次男である命福(高宗)を自身と孝明世子の養子にすることで、朝鮮王に即位させた。 高宗即位後は、高宗の母(大王大妃)として、影響力を保持した。また、高宗の后を自分の実家である豊壌趙氏から出そうとしたが、興宣大院君の反対に遭って失敗した。 1890年4月17日、83歳で景福宮興福殿において死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神貞王后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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