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神辺合戦(かんなべかっせん)は、天文12年(1543年)6月から天文18年(1549年)9月4日まで、備後国神辺城(広島県福山市)を巡って大内氏・毛利氏と山名理興(尼子氏側勢力)の間で行われた一連の戦いである。6年以上に渡って断続的に行われ、大内・毛利方が勝利した。なお、この戦いは「神辺城の戦い」などと表記されることも多いが〔戦国合戦史事典(著:小和田泰経 2010年 新紀元社)〕〔戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 吉川弘文館)〕、当時の城名は「村尾城」であり、「神辺城」の名は16世紀末以降に付けられている。本項では、現在の名称である「神辺城」で表記する。 == 背景 == 備後国の有力国人であった山名理興〔山名理興は、陰徳太平記などでは杉原姓で表記されている。詳細は山名理興の項を参照のこと。〕は、安那郡にある神辺城を居城とし、大内氏と結んで備後の外郡(そとごおり=備後国南部の沿岸地域)一帯に勢力を伸ばしていた。しかし、尼子氏の本拠地出雲国に遠征していた大内軍が天文12年(1543年)5月に敗北すると(第1次月山富田城の戦い)、山名理興は大内方から尼子方に鞍替え、大内方勢力と対立する。 尼子氏の後ろ盾でさらに勢力拡大を図る理興は、出雲遠征の失敗で当主を失ったばかりの竹原小早川氏を標的として攻め込むが、大内軍は安芸国の最有力国人である毛利元就と共に反撃する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神辺合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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