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神風正一 : ミニ英和和英辞書
神風正一[かみかぜ しょういち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
神風 : [かみかぜ]
 【名詞】 1. divine wind 2. Kamikaze 
: [ふう, かぜ]
  1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [いち]
  1. (num) one 

神風正一 : ウィキペディア日本語版
神風正一[かみかぜ しょういち]

神風正一(かみかぜ しょういち、本名:赤沢正一、1921年10月19日 - 1990年5月15日)は、香川県大川郡三本松町(現在の東かがわ市)出身で二所ノ関部屋所属の元大相撲力士。元相撲解説者。最高位は東関脇。身長179cm、体重98kg。得意手は左四つ、上手投げ外掛け
== 来歴 ==
小学校時代は朝日新聞社健康優良児に選ばれたという経歴をもち、運動神経抜群にして頭脳明晰、噂を聞きつけた横綱玉錦の熱心な勧誘に折れて1937年(昭和12年)5月場所に初土俵を踏む。福住(のちの玉乃海)と同期だった。入門に当たって玉錦には「勉強がしたければ大学だって行かせてやる」とも言われていたが、その玉錦の死後流石に大学は諦めた。1939年(昭和14年)には稽古中に右足の外踝と内踝を同時に折るという重傷を負い、主治医から切断必至と診断される程だったが奇跡の回復、負傷前に93kgあった体重が退院時には60kgまで落ちたが、遅れを取り戻さんと猛稽古をしたのが功を奏し、回復後は好成績が続いて順調に出世し、1942年(昭和17年)1月場所、20歳で新入幕。同時に入幕した輝昇若瀬川とともに若手として期待され、突っ張りを交えた颯爽とした取り口で関脇まで昇進した。顔の合った横綱は全て破っているが、1950年(昭和25年)1月場所、前頭2枚目で2横綱、1大関を倒して9勝6敗の成績をあげながら、翌場所前頭筆頭に止められた(この時は東筆頭で不戦勝を含む8勝7敗だった出羽錦が小結になった)不公平さに失望したのか、番付面の不満〔自著『神風一代―わたしの昭和相撲小史』には当時の出羽海一門が番付面で優遇されていた実態が綴られ、二所ノ関部屋が冷遇されていた不満が露わになっていた。〕を理由に翌場所突如引退、年寄片男波を襲名したがまもなく廃業した。その後大相撲中継が開始した1953年5月場所から1987年5月場所(テレビでの解説は1986年3月場所で勇退)までNHKの相撲解説者として、玉の海梅吉と共に活躍し、なかなかの美声と歯切れの良い語り口で解説し、独特の語り口で人気を博した。指摘した戦法通りの結果となることも多く、「神風さんの仰ったとおり」とアナウンスされることもしばしばあるほど。力士の動きをわかりやすく話し、相撲人気の一翼を担った。文芸評論家小林秀雄は神風解説のファンで『神風の解説こそほんとうの解説だ、表も裏も知り尽くして云々』と絶賛していたという。
なお、神風の四股名の由来は、朝日新聞社が所有した長距離飛行機(「神風号」)の名前からとったものである。そのため戦争中に〈神風特別攻撃隊〉が生まれると軍部から「不敬である」と非難されて謹慎処分を受けたが双葉山の取りなしによって直後の1945年6月場所には間に合った。それに配慮してその6月場所と翌10月場所に限って二所ノ関部屋ゆかりの海山太郎のしこ名を名乗った。
解説引退後の1987年(昭和62年)には日本相撲協会の協力を得て大相撲の著書を出している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「神風正一」の詳細全文を読む




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