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祥興帝(しょうこうてい)は、南宋最後の第9代皇帝。姓は趙、諱は。廟号、諡号を持たないために、在位中の元号から祥興帝と呼ばれる。また、即位以前に封じられた王号でと呼ばれることも多い。他に少帝、幼主、帝昺と称される場合もある。元代に編まれた『宋史』では永国公として、恭帝(瀛国公)、端宗(建国公)と共に本紀の最後の巻(第四十七)にまとめられている。度宗の七男で、端宗の異母弟、また恭帝とは同年生まれの異母兄弟である。 == 生涯 == 徳祐2年(1275年)に南宋の都城である臨安が陥落すると、恭帝と謝太后は元軍に囚われた。恭帝の異母兄である益王趙昰(端宗)は楊亮節、陸秀夫、張世傑、陳宜中、文天祥などの護衛の下福建に逃れて即位し、ともに逃れた趙昺は衛王に封じられた。景炎3年(1278年)に端宗が崩御すると、陸秀夫により碣州(現在の香港大嶼山、一説には広州市)にて趙昺が皇帝に擁立され、祥興と改元し、元軍を避けて崖山へと逃れた。 祥興2年(1279年)、元の張弘范による崖山攻撃が開始されると、宋軍水師は張世傑の指揮の下に抵抗を続け、崖山の戦いと称される海戦が行われた。この戦いで宋軍は壊滅、陸秀夫は8歳の趙昺を抱いて入水し、ここに南宋の残存勢力は完全に滅亡した。 崖山における陸秀夫と幼帝の悲劇的な最期は、現在においても多くの人々に哀惜の念を与え続けている。古くから伝わった箏曲に「崖山哀」という曲目があるほどである。また日本でも壇ノ浦の戦いの平家滅亡時の外祖母である二位尼と共に入水した安徳天皇と、状況が酷似している所から菅茶山の漢詩「赤間が関懐古」や安積艮斎の漢詩「壇浦懐古」、最近では田中芳樹の小説『海嘯』、宇月原晴明の小説『安徳天皇漂海記』などで趙昺の事が触れられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「祥興帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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