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禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法。禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目ともいう。 == 概要 == 禁中並公家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法令である〔ただし、当時宮中の席次や紫衣の手続を巡って論争があり、朝廷からその仲裁を要請されていた事情も背景にあった。実際に公布直前の5月16日には二条城滞在中の家康から有力公家に原案が提示されてその意見をもとに修正が加えられている。〕。慶長20年7月17日〔実際にはこの法度の発布される4日前の7月13日に「慶長」から「元和」に改元されているが、現存する法度の写本は「慶長廿年七月」の日付が記載されている。まさにこの改元において、当法度第8条に規定されている改元権を巡り、朝幕間で諍いがあった。詳細は元和(年号)を参照。〕(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実〔当時の関白は鷹司信尚であるが、大坂の役で豊臣氏に加担した疑いをかけられて謹慎・辞表提出に追い込まれており、法度公布直前の7月10日に二条昭実に次期関白の内示が出され、同28日に正式に任命されている。つまり昭実は事実上の現関白の立場として法度に署名している。〕の3名の連署をもって公布された。漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一切改訂されなかった〔法度の内容自体は幕末まで変更されなかったものの、細かい字句については万治4年(1661年)の原本焼失による復元の際に変更された可能性もあるとされる。〕。 この法度の制定に先立ち、幕府は朝廷への干渉を強めていた。その端緒は、慶長14年(1609年)に発覚した女官らの密通事件(猪熊事件)である。事件後の慶長16年(1611年)、豊臣政権から徳川幕府への過渡期の朝廷をたくみに采配した後陽成天皇が退位し、後水尾天皇が即位した。慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」が定められた。さらに、慶長20年(1615年)の禁中並公家諸法度に至って、公家のみならず天皇までを包含する基本方針を確立した。以後、この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定することとなった。 また、寛永8年11月17日(1632年1月8日)には、後水尾上皇の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「若公家衆法度」が制定された。この制定過程に幕府は間接的な関与しか行わなかったものの、その役割は禁中並公家諸法度を補完して、公家の統制を一層進めるものとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禁中並公家諸法度」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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