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福住正兄 : ミニ英和和英辞書
福住正兄[ふくずみ まさえ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 
: [じゅう]
 【名詞】 1. dwelling 2. living 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [あに]
 【名詞】 1. (hum) older brother 

福住正兄 : ウィキペディア日本語版
福住正兄[ふくずみ まさえ]

福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日1824年9月13日) - 明治25年(1892年5月20日)は、日本の農政家、実業家。報徳仕法の研究・実践者。
== 来歴 ==
文政7年(1824年)、相模国大住郡片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)にて大沢市左衛門の五男として生まれる。幼名は「政吉」。
文政10年(1827年)、親類の大住郡南金目村(現在の平塚市南金目)の名主、森勝五郎の養子となるが、養父母の死により実家に帰る。
天保元年(1830年、7歳のとき儒学者千賀桐陰の教えを受ける。政吉は当初、天保の大飢饉で疲弊した貧しい農民を救うべく医術の道を志していたが、「人を病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし。それには国の病を治す医者として当世第一人者の二宮先生に教えを請うのが良い。」との父の勧めに従って弘化2年(1845年)10月、21歳のときに二宮尊徳の門下生となった。
弘化4年(1847年)、尊徳が下野国東郷陣屋(現在の栃木県真岡市)へ天領の経営建直しに赴いた際は正兄も現地に飛び、師の身の回りの世話を行なった。尊徳の経営再建は成功し、この例が基礎となって、後に報徳仕法が確立されることとなる。このときに二宮尊徳より受けた様々な教えを書き留めたものが如是我聞録であり、これを基として後に二宮翁夜話を著す。
嘉永3年(1850年)10月、正兄は尊徳の元を辞し、親戚筋である福住家に養子に入り、「10代目九蔵」に改名。福住家は代々箱根湯本で旅館業を営み、また湯本村の名主も務める名家であったが、9代目九蔵の代に火災に遭ったこともあり、家業は衰退していた。尊徳の教えを受けた正兄に福住家復興の期待を託した養子縁組であった。分度、推譲といった報徳仕法の実践に努めた正兄は、わずか一年で福住家の復興を成し遂げ、家業は隆盛し嘉永4年(1851年)11月、27歳にして湯本村の名主となった。
明治4年(1871年)家督を長男、11代目九蔵に譲る。このときから「福住正兄」を名乗るようになる。この頃、福住家の旅館を石造り3階の建物(金泉楼萬翠楼)に改築すると共に、(萬翠楼は森鴎外作「青年」の舞台となった。)後に観光地としての箱根の礎となるべき様々な事業に乗り出す。
福澤諭吉の「箱根普請の相談」の影響を受ける。
明治8年(1875年)、小田原~湯本間の近代的な道路設置工事に着手する。明治15年(1882年)、道路の完成により、小田原~湯本間で馬車、人力車の往来が可能となる。
明治20年(1887年)7月、有志6名と共に神奈川県に国府津~湯本間の馬車鉄道敷設嘆願書を提出。翌明治21年(1888年)、国府津~湯本間の馬車鉄道開通。
明治25年(1892年)5月20日没。遺骸は箱根早雲寺に埋葬される。
大正13年(1924年)2月、生前の功績により正五位の追贈を受ける。
現在、子孫が湯本で旅館「萬翠楼」を営む。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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