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福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本の卓球選手。宮城県仙台市生まれ、血液型はB型。〔福原愛公式ウェブとオフィシャルブログのプロフィール、1988年11月1日生まれ。出身地宮城県仙台市、血液型B型。〕全日本空輸(ANA)に所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。ITTF世界ランキング最高位は4位(2015年10月)。青森山田高校卒、早稲田大学スポーツ科学部中退。内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」。 == 来歴 == === 幼少時 === 1988年11月1日に仙台に生まれる。1992年8月13日から卓球を始めた。3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した(注・2001年4月から日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている)。 一家はミキハウス本社のある大阪府八尾市に引越し、福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。この時に、王子卓球クラブの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。大阪では公立小学校に通っていた。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してるため、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになった)。ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。 以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定〔世界団体ドーハ大会、アテネ五輪アジア予選 福原愛、日本代表一番乗り! 2003年9月28日〕。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福原愛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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