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福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日(1833年7月16日) - 大正3年(1914年)2月22日)は、広島県出身の浄土真宗の僧侶、教育者。浄土真宗本願寺派明円寺11世住職。 == 略歴〔広島市編『佐東町史』(広島市、1980年3月)参照〕 == 天保4年(1833年)5月29日安芸国沼田郡中調子村(現在の広島市安佐南区川内)の浄土真宗本願寺派明円寺第10世住職福島大乗の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)5月、大順が16歳の時に旧豊田郡川尻町(現呉市)の光明寺の訶提〔沼田郡矢口村教蓮寺の生まれ。後に勧学となる。龍華学派。〕の門に入り、嘉永4年(1851年)12月までの2年7ヶ月間で仏学の基礎を学んだ。翌嘉永5年(1852年)2月に本願寺学林(京都、現龍谷大学)に入り、安政元年(1854年)7月まで学んだのち帰郷した。文久元年(1861年)12月25日に大順は明円寺第11世住職を継ぐ。 学林での学階は、明治8年(1875年)に得業、明治27年(1894年)に助教、明治37年(1904年)に輔教と累進していき、大順没後の大正4年(1915年)には司教を追贈されている。学林から帰山した後は、本願寺や地方庁からの依頼を受けて、芸備地域での仏教講演において活躍する一方で、明治9年(1876年)には広島仏学場(現崇徳高等学校)、次いで翌明治10年(1877年)の進徳教校(現同校)の創立にあたり、霊山諦念、観山綜貫らと共に県下各地を廻り尽力した。 明治20年(1887年)には崇徳教社幹事となり、本山から広島県副総組長に任命され(当時総組長は欠員)、事実上県内真宗寺院僧侶の頂点に立った。翌明治21年(1888年)には進徳教校第2代総監に就任し、明治29年(1896年)までの8年間奉職した。大正3年(1914年)2月22日、81歳で往生を遂げた。なお、大順の孫である福島利美(明円寺第13世住職)は後に崇徳高等学校の第3代校長に就任している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福島大順」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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