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福島 安正(ふくしま やすまさ、嘉永5年9月15日(1852年10月27日) - 大正8年(1919年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。萩野末吉に続く情報将校。 == 経歴 == 嘉永5年(1852年)、信濃国松本城下(現・長野県松本市)に松本藩士・福島安広の長男として生まれる。慶応3年(1867年)、江戸に出て、幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦。 明治2年(1869年)、藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学ぶ。明治6年(1873年)4月、明治政府に仕官し、司法省から文官として明治7年(1874年)9月に陸軍省へ移る。明治9年(1876年)7月から10月までアメリカ合衆国に出張。フィラデルフィア万国博覧会へ西郷従道に随行。明治10年(1877年)の西南戦争では福岡で征討総督府の書記官を務めた。 明治11年(1878年)5月、陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる。同年12月、参謀本部長伝令使に就任。明治12年(1879年)3月、陸軍教導団歩兵大隊付となり、同年12月、参謀本部管西局員に異動。中国、朝鮮などを実地調査し、明治16年(1883年)2月、陸軍大尉に昇進。同年6月、清国公使館付となる。 明治17年(1884年)11月、参謀本部管西局員兼伝令使に就任。明治18年(1885年)2月から4月まで、天津条約の交渉に随員として陪席する。陸軍大学校でドイツから来日したメッケルに学ぶ。明治19年(1886年)にはインド、ビルマ方面を視察の上、翌1887年(明治20年)に陸軍少佐に昇進。ドイツのベルリン公使館に駐在、公使の西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。 明治25年(1892年)、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。 明治26年(1893年)2月、陸軍中佐に進級。明治27年(1894年)6月、京城公使館付となる。同年8月、第一軍参謀として日清戦争に出征。 明治28年(1895年)3月、陸軍大佐に昇進。同年9月、参謀本部編纂課長となり、欧州・アジア旅行、参謀本部第3部長、同第2部長を歴任。 明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級し西部都督部参謀長を兼務。同年6月、義和団事件鎮圧の為、臨時派遣隊司令官として清国に派遣された。同年9月から翌年6月まで、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役となる。明治35年(1902年)5月から11月までイギリスに出張。 明治37年(1904年)2月、大本営参謀に就任し、同年6月からの日露戦争では満州軍総司令部参謀として、それまでの経験を活かして諜報部において手腕を振るう。特に、満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。 明治39年(1906年)4月、参謀本部次長に就任し、同年7月、陸軍中将に進級。明治40年(1907年)9月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。明治41年(1908年)12月、参謀次長(名称変更)に発令され、同45年(1912年)4月に関東都督に就任。 大正3年(1914年)9月15日、陸軍大将に進級と同時に後備役となり〔『官報』第639号、大正3年9月16日。〕、同年11月、帝国在郷軍人会副会長に就任。最晩年には「剛健主義」を掲げ全国騎馬旅行などをして過ごす。 大正8年(1919年)、東京市郊外の高田村(現、豊島区雑司が谷附近)の自宅で死去。67歳。墓所は東京都港区の青山霊園。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福島安正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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