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福嶋 一雄(ふくしま かずお、1931年1月6日 - )は、日本の野球選手(投手)。1940年代から1950年代にかけてアマチュア野球でプレーした。 == 経歴 == === 高校時代 === 福岡県小倉市(現・北九州市)出身。到津小学校時代、実家近くの門司鉄道管理局のホームグラウンド小倉到津球場で、九州実業団野球の早慶戦と言われた八幡製鉄(のちの新日鉄八幡〔2003年、野球部廃部〕)と門司鉄道管理局の定期戦、製門戦に熱中する。 1945年に福岡県立小倉中学校(旧制、現・福岡県立小倉高等学校)に入学。1946年3月、小学生のとき、肋膜を患い1年休学したほど、健康にはもう一つ自信がなかった福嶋は、柔道、剣道などの武道は進駐軍から禁止されていたので、「どうせ身体を鍛えるなら野球が一番いい」と思い、野球部に入部する。戦後初の全国大会となった第28回全国中等学校優勝野球大会では登録メンバーに選ばれたが試合出場は無し。大会後、監督の鬼塚格三郎に投手に抜擢される。阪神タイガースの若林忠志投手の「野球教本」を参考に毎日、少ないときで300球、多いときで400球の投げ込みを行い、その間に走って足腰を鍛え、腹筋背筋を鍛えた。猛練習を繰り返しながら、練習試合も多く組まれ、1試合で投げるのはせいぜい120球であるが、福嶋は試合で投げたその120球すべての配球を覚えており、試合後に投球を反芻しながら反省した。なぜ、あの場面で、あのカウントで、あのボールを、あの打者に打たれたのか? どうしてあのボールは打たれなかったのか? 負けては反省、勝っても反省した。このようにして福嶋の投球術は進化した。 1947年の第19回選抜中等学校野球大会ではエース福嶋の活躍もあって小倉中学は決勝戦まで進み、徳島商業と対戦する。惜しくも延長11回惜敗するが、福嶋はこの大会でようやく全国に通用することがわかり、自信を得る。夏の第29回全国中等学校優勝野球大会に小倉中学のエースとして優勝、さらに翌1948年の夏、新制高校の最初の夏の甲子園大会に小倉高校のエースとして優勝し、夏の甲子園大会2連覇を果たす。この1948年には甲子園全5試合連続45イニング無失点を記録。これは戦前、海草中学の嶋清一が記録した5試合45イニング無失点に並ぶ甲子園記録である。 1949年、小倉北高(この年だけ校名が小倉北高となる)は戦前の中京商業が達成した夏の甲子園大会3連覇に挑むが、福嶋の右肘は酷使のため悲鳴を上げていた。福岡県予選ではベンチに鍼灸師を入れ、福嶋は毎回、ハリ治療を受け、肘を伸ばしてマウンドに登った。だが、甲子園大会の準々決勝、倉敷工業戦では激痛のあまり変化球を1球も投げられず9回途中で交代、延長10回惜敗する。 ; 福嶋の小倉中学・小倉高・小倉北高時代(1946年 - 1949年)の公式戦全成績 * 58試合48勝6敗 2試合確認不可能 勝率.889 : (そのうち全国大会での成績29試合23勝5敗 勝率.821) * 1947年 * 第19回選抜中等学校野球大会 小倉中準優勝 * 第29回全国中等学校優勝野球大会 小倉中優勝(東口賞受賞) * 第2回国民体育大会 小倉中準優勝 * 1948年 * 第20回選抜高等学校野球大会 小倉中1回戦敗退 * 30回全国高等学校野球選手権大会 小倉高優勝 * 第3回国民体育大会 小倉高準優勝 * 1949年 * 第21回選抜高等学校野球大会 小倉北高準決勝敗退 * 第31回全国高等学校野球選手権大会 小倉北高準々決勝敗退 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福嶋一雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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