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福永 祐昺〔飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯(宮崎県立図書館、1977年)P.65)。記事名の「炳」字は代用表記(炳の異体字には「㶮」「丙」「昞」「昺」がある→こちら を参照)。〕(ふくなが すけあき)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 小身の家柄の出身だが、娘が主君・伊東尹祐に見初められ祐充、祐清、祐吉を生んだことで一躍当主家の外祖父となり、家老の地位を得た。尹祐の死後、若年の祐充が家督を継ぐと専横の振る舞いが多くなり、その有り様は「威勢国中に肩を並ぶる人もなし」とまで評され、譜代家臣団との深刻な対立を招いた。 とりわけ山間部の小河領主、嶽の米良氏を被官としたことは稲津氏、落合氏などからの反発が強く、享禄4年(1531年)には都於郡城下において「若き衆」と号する一揆との戦闘行為にまで発展した。祐炳は当主の威光を背景に「守護方」を称して若き衆を弾圧し、そのために家中からは落合兼由、稲津重由、右松祐宣、川崎良代ら多くの有為の士が失われた。 こうして反対勢力は除かれ、その権勢はいよいよ増したかに思われたが、天文2年(1533年)に祐充が早世すると、福永氏の専横を憎む祐充の叔父・伊東祐武が反乱を起こし、祐炳は3人の子と共に自害に追い込まれた。 == 脚注 == category:戦国武将 category:日向国の人物 category:自殺した人物 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福永祐炳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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