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豊橋電気株式会社(とよはしでんき)は、大正から昭和初期にかけて愛知県に存在した中規模電力会社である。渥美半島西部、現在の田原市の大部分にあたる地域において電力供給事業を営んだ。 渥美電気株式会社(あつみでんき)と福江電灯株式会社(ふくえでんとう)の事業を統合して1921年(大正10年)に発足した。発足時の社名は豊橋電気信託株式会社(とよはしでんきしんたく)。なお、1921年まで豊橋市を本拠とする豊橋電気(旧・豊橋電灯)が存在したが、同社の元専務取締役が設立したのが本稿で記述する豊橋電気である。 == 沿革 == 豊橋電気、旧・豊橋電気信託の前身の一つである渥美電気は、田原町営の電気事業を継承して1918年(大正7年)6月11日に開業した。前身の田原町営電気事業は、渥美郡田原町での電灯供給を目的に設立が進められていた田原電灯株式会社を、電気事業は公営が望ましいという観点から田原町が買収したために開始されたものである。田原町は電気課を設置して事業に着手し、大字田原字北番場(現・田原市田原町字北番場)に出力30キロワットの火力発電所を建設して1913年(大正2年)5月に開業した。供給区域は当初町内に限られていたが、1914年(大正3年)6月に東隣の神戸村への供給も開始した。 もう一つの前身である福江電灯は、渥美郡福江町の有力者の発起により設立された。福江町大字中山字北松渕(現・田原市中山町字北松渕)に出力20キロワットの火力発電所を建設、1913年5月1日に開業して福江町内での電灯供給を開始した。1917年(大正6年)には隣接する泉村への供給を開始している。 同じ時期に開業した渥美電気、福江電灯の両社は、開業から数年経つと需要の増加に対応できず供給力不足が問題になった。これに対処するため両社は共同で田原町に受電設備を設置し、豊橋電気(旧・豊橋電灯)からの受電に切り替えた。受電設備は1919年(大正8年)7月に完成、当初の受電量は渥美電気が50キロワット、福江電灯が35キロワットであった。受電への切り替えにより、福江電灯は伊良湖岬村と赤羽根村への供給も開始した。 豊橋電気からの受電を開始したのと同じ1919年、同社の専務取締役であった武田賢治が渥美電気と福江電灯の社長にそれぞれ就任した。武田は豊橋電気が名古屋電灯と1921年(大正10年)に合併したのを機に豊橋電気を退き、同年2月、資本金200万円で豊橋電気信託を設立して同社社長に就任。新設された豊橋電気信託は同年11月30日、渥美電気と福江電灯から事業を譲り受けて渥美半島の電気事業を統合した。発足時の豊橋電気信託は本社を豊橋市に置き、名古屋電灯の後身東邦電力から受電して渥美郡の2町5村へ電気を供給した。開業1年後の1922年(大正11年)10月、豊橋電気信託は豊橋電気へと改称した。 1924年(大正13年)6月、岡崎電灯(後の中部電力)が田原変電所を開設した。これにあわせて豊橋電気は東邦電力からの受電を打ち切り、岡崎電灯からの受電に切り替えた。昭和に入り需要が増加すると田原受電所1か所だけでは不足したため、1934年(昭和9年)11月に泉村大字江比間(現・田原市江比間町)に泉変電所を新設、中部電力田原変電所からの送電線を接続した。 受電先の中部電力は、1937年(昭和12年)8月に東邦電力に合併された。豊橋電気も、日中戦争勃発を契機として電力国家管理が強化されていく中で、東邦電力が周囲の中小規模電力会社を統合する方針を採ったため1939年(昭和14年)11月に同社に合併された。東邦電力はその後1942年(昭和17年)に解散、愛知県内の配電事業は中部配電が継承した。第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)に中部配電は解散して中部電力が発足し、現在では旧豊橋電気の供給範囲を含む愛知県全域が中部電力の営業範囲となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊橋電気 (1921-1939)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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