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福田恒存 : ミニ英和和英辞書
福田恒存[ふくだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

福田恒存 ( リダイレクト:福田恆存 ) : ウィキペディア日本語版
福田恆存[ふくだ つねあり]

福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年大正元年)8月25日 - 1994年平成6年)11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家1969年昭和44年)から1983年(昭和58年)まで京都産業大学教授を務めた。1981年(昭和56年)より日本芸術院会員〔。名前は「ふくだ こうそん」とも呼ばれる〔。
平和論への批判を早くから行った右派系の文化人で、同時期よりシェイクスピア戯曲作品の翻訳、演劇上演も行った。産経新聞の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎小林秀雄等の提唱によって創刊された。文藝春秋社の「文藝春秋」、「諸君」、自由社の「自由」などの保守派雑誌への寄稿でも知られた。
== 経歴 ==
1912年大正元年)8月25日、東京市本郷区(現在の東京都文京区東部)に東京電燈株式会社に勤めていた父・幸四郎、母・まさの長男として生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する〔。第二東京市立中学校(現、東京都立上野高等学校)で高橋義孝と同級。旧制浦和高等学校を経て1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」。
大学卒業後は中学教師、出版社、団体職員などで勤務した〔。1937年(昭和12年)に第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表、文芸評論を始めた。他に戦前や戦後間もない時期に発表された嘉村礒多芥川龍之介らに関する論考が文芸評論での主な作品である。また、1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。
昭和20年代後半期より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。
福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛のなかでの保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判。また戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語教室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊の一部等は現代かなづかいを用いている。
翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ『老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルド『サロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。
劇作家、演出家としても活躍。1952年(昭和27年)に文学座に入り、『ハムレット』、自作の『龍を撫でた男』などの演出を担当するが、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年(昭和31年)に退座。1963年(昭和38年)、かつて福田が手がけた『ハムレット』で主演を務めた芥川比呂志や、仲谷昇岸田今日子神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任。同協会附属の「劇団雲」では、シェイクスピア劇の作・演出を担当する。
やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。
1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した〔。享年82。12月9日青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎久米明等が弔辞を述べた。
主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただ自選のため、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社、1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未所収のままの論考著作も多い。
2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授。また演出家翻訳家財団法人「現代演劇協会」〔設立50年目の2013年秋に一旦解散した。〕理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「福田恆存」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tsuneari Fukuda 」があります。




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