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福田 正博(ふくだ まさひろ、1966年12月27日 - )は、日本の元サッカー選手である。現役時代のポジションは主にFWで、背番号は9番。Jリーグ開幕直前の1989年から引退する2002年まで浦和レッズ(三菱自動車サッカー部)の象徴的存在として活躍し、サポーターには「ミスター・レッズ」、「大将」と呼ばれた。 == 来歴 == === 学生時代 === 神奈川県横浜市緑区で生まれる。子供の頃は野球少年だったが小学5年の時に横浜市から藤沢市に転居し、転校先の小学校でサッカーと出会う。小学校の担任の義兄が読売サッカークラブのコーチを務めていた橋本章也という人物で、福田は橋本からサッカー技術を学んでいった〔『ミスターレッズ福田正博』14-17頁〕。 中学進学の際には橋本から読売クラブのJrユースチームへの勧誘を受けたが〔『ミスターレッズ福田正博』17頁〕、これを固辞し地元の大庭中学校へ進学。2年次の1981年には関東予選を突破して全国中学校サッカー大会に出場した。神奈川県下では名の知れた選手となっていた福田は、高校進学の際には当初は地元の神奈川県立藤沢西高等学校を志望していたが、確実に全国大会へ出場できる高校を志望し、相模工業大学附属高校へ進学することになった〔『ミスターレッズ福田正博』19頁〕。 相工大付属高校では1年次の春からレギュラーへ抜擢され、2年次には関東大会でベスト4進出を果たし優秀選手にも選ばれた。しかしながら県予選を突破して全国大会へ出場することは叶わず、2年次の全国高等学校サッカー選手権大会決勝では神奈川県立鎌倉高等学校に、3年次の決勝では藤沢西高等学校に敗れ去った。 高校生活で最も脚光を浴びたのが、3年次の国民体育大会であった。神奈川県選抜のセンターフォワードとして6得点を挙げる活躍で決勝進出に導き、決勝では静岡県選抜を下し初優勝に貢献した。 1985年に中央大学へ進学しサッカー部へ入部。1年次からレギュラーとなり秋の関東大学サッカーリーグ戦ではリーグ戦4位に新人王を獲得する活躍を見せた。この活躍により、それまで各年代の代表チームへ招集される機会のなかった福田は翌1986年に日本B代表選ばれ、南米遠征に参加した。しかしながら1987年にはユニバーシアード代表候補に選ばれるも最終選考で落選、1988年には日本B代表としてアジアカップの代表メンバーに選出されたが、試合での出場機会は与えられなかった。 また、所属する中央大学では3年次のリーグ戦でアシスト王を受賞、4年次には主将を務めたものの、当時のサッカー部や選手を取り巻く環境は劣悪で、サッカーだけに専念できる状況で無く不本意なものだったという。福田は当時を振り返って「1人の人間としては有意義だったが、サッカー選手としてはマイナスの時期だった」と語っている〔『ミスターレッズ福田正博』36-40頁〕。 卒業後の進路については日本サッカーリーグに所属する6チームから勧誘を受け、古河電気工業サッカー部と三菱重工業サッカー部に絞った。1980年代後半の日本サッカー界ではプロ契約を結べるようになっており、大学サッカー界の有力選手はプロ志向の強いチームへ入団する傾向にあったが〔『ミスターレッズ福田正博』40-41頁〕、福田は大学時代の成績から「サッカーで生活する」ことは考えられず終身雇用を希望し、アマチュア志向の強い三菱重工へ入社することになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福田正博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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