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福羽 逸人(ふくば はやと/いつせん、安政3年11月16日(1856年12月13日) - 大正10年(1921年)5月19日)は、日本の官僚、農学者、造園家、園芸家。位階・勲等は正三位勲一等〔『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日 〕。爵位は子爵〔。宮内省で長く宮廷園芸技師として活躍、小豆島のオリーブや「ふくばいちご」として知られるイチゴなど植物栽培、花弁果樹野菜等の品種改良など園芸分野で多く貢献をしたほか、新宿御苑をはじめとする宮内省管轄の庭園等の整備、武庫離宮(須磨離宮)の庭園設計、栗林公園北庭および日比谷公園西洋花壇の設計に当たった。 == 来歴・人物 == 石見国津和野藩にて佐々布利厚の三男として生まれる。1872年(明治5年)、16歳のとき、同藩士・福羽美静の養子となる。その年に上京。上京してからはドイツ語その他を学び、同年内藤新宿試験所の実習生となる。1877年(明治10年)には津田仙が主宰する学農社農学校に入学、農学と化学を修める。 1878年(明治11年)に内務省勧農局試験場に入り、農事修学所に勤務。農業園芸の実習と加工製造を研磨。1879年(明治12年)三田育種場詰・植物御苑掛となる。果樹栽培に関して山梨、兵庫、和歌山の地方などを調査し、兵庫県加古郡(現・稲美町)に国立の播州葡萄園を設立、1886年(明治19年)に同園の園長となるほか、欧州園芸の実地を研究のためイタリアとフランスへ派遣され、その後米国を巡回して帰国した。1889年、パリ万国博覧会を視察。ヨーロッパと北米を出張訪問。1890年農商務省技師補に就任、東京農林学校(後の帝国大学農科大学)兼務となり、はじめて園芸学を担当した。 1896年(明治29年)、宮内省式部官を兼務し、伏見宮貞愛親王とロシアへ随行。1897年(明治30年)には植物御苑掛長になり、ルソン島・マニラへ調査出張。1899年(明治32年)にロシアとフランスへ出張する。翌1900年(明治33年)にもパリ万国博覧会へ出展園芸物の審査にフランスのパリに出張。博覧会園芸万国会議に列する。その合間にベルサイユ園芸学校校長アンリ・マルチネに御苑の改造の相談と計画指導を依頼している。和洋の様式が混在した造園として面積18万余坪を占める新宿御苑は、2年後から5年間かけて完成させる。10数年前から多種多様の内外樹草を育成準備したため、わずかな経費で豪華にして優麗な大庭園に改造した。同年に西欧風公園である日比谷公園の建設に際し造営委員会に加わる。園芸花壇の設計および花壇の造成指揮をとり、西欧園芸の粋をきわめた花壇を出現させる。その後新宿試験場跡の植物御苑発足に当たり、1891年に宮内省御料局技師に任命され、1903年には植物御苑苑長に就任、御苑改造完成後の1904年(明治37年)には宮内省内苑局長に就任。全般の指揮をとる立場となった。以後、宮内省に退職まで奉職する。 1906年(明治39年)には東京市の依頼で、市内の街路樹の試験研究を委嘱する。東京市の街路並木改良について長年の経験を基に、白沢保美と協力立案した。スズカケノキ挿穂2万本、ユリノキの種子数種を交附し育成を指導した結果、3年で街路樹木を育成定植させた。1907年(明治40年)に爵位は継承。1908年(明治41年)に武庫離宮(現在の須磨離宮公園)の庭園設計を行った。そのほか邸宅庭園では、李王邸や溝口伯爵邸の改良、麻布鳥居坂町の佐々木邸などを手がける。 また小沢圭次郎の別府公園(明治41年)は、福羽の推薦による。 1913年(大正2年)に大膳頭並内匠寮御用掛に就任。1917年(大正6年)7月21日、大膳頭並に内匠寮御用掛を退任し、正三位勲一等瑞宝章、宮中顧問官となる〔『官報』第1493号、大正6年7月23日。〕。1919年(大正8年)、農学博士を授与されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福羽逸人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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