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福間 納(ふくま おさむ、1951年7月13日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手(投手)。一時期、登録名を福間 納一(読み同じ)とした。 2009年に株式会社アイランドプロモーション に所属。テレビ・ラジオ出演や講演会活動などを行う。 == 来歴・人物 == === 現役時代 === 大田高校では2年生からエースとなり、の夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、浜田高に敗れる。翌には春の甲子園に出場。1回戦でエース井原慎一朗を擁する丸亀商と対戦するが4-9で敗退。同年夏は県予選準決勝で江津工の三沢淳投手、高橋寛捕手のバッテリーに抑えられ1-4で敗退、甲子園には届かなかった。 卒業後は松下電器に入社する。の都市対抗にエースとして初登板。九州産交を完封するなど2勝をあげ、チームの準々決勝進出に貢献した。その後は一時外野手に転向するものの1年で投手に復帰。都市対抗にまで8度出場した。 1970年のドラフト会議〔当時は、社会人野球在籍選手の「高校卒後3年、大学卒後2年」のドラフト指名凍結期間はなく、このように高卒・社会人1年目の選手でもドラフトの対象となった。〕で阪急ブレーブスから7位指名されるが、この時は入団せず、1978年のドラフト会議でロッテオリオンズから1位指名〔3位指名が落合博満。〕され、入団。しかし、ヒジ痛もあって精彩を欠き、ロッテ時代は勝ち星なしに終わった。 シーズン途中に深沢恵雄との交換トレードで阪神タイガースに移籍。主に中継ぎ投手として活躍し、に最優秀防御率のタイトルを獲得。 にシーズン77試合登板のセ・リーグ記録(当時)を達成。同年は「福間、谷間、福間、谷間」〔元は権藤博の「雨、雨、権藤、雨、権藤」であるが、当時の阪神投手陣の弱体ぶりを揶揄する言葉でもある。〕といわれるほどの登板機会により稲尾和久が持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫り、記録を破るかどうかが注目された。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた宇佐美徹也は当時監督の安藤統男に手紙を書き「稲尾の記録は400イニング以上投げて作られた中身のある記録。中継ぎの登板で形だけの記録更新は考え直してほしい」と訴えた。この手紙が功を奏したかは不明であるが、結局福間の登板記録は稲尾より1試合少ない77試合となった。宇佐美は後に「この年より登板数が少なくても、優勝に貢献した翌年の方がはるかに実のあるシーズンだった」と記している。宇佐美はそれから17年後のに広島の菊地原毅が稲尾の記録に並びそうになった時も、山本浩二監督に同様の手紙を送ったが、結果として菊地原は稲尾に並ぶ78試合に登板した。更にに藤川球児が福間、さらには稲尾や菊地原の記録を上回った時にはそうした批判はほとんど上がらなくなった。これは年代が進むにつれてリリーフ投手の地位が向上した結果といえる。 の優勝にも大きく貢献した。同年の西武との日本シリーズでは第4戦の9回2死二塁の場面で西岡良洋に勝ち越しの2ランホームランを打たれて敗戦投手となったが、当時監督だった吉田義男は翌日の第5戦でも福間を起用、4回1死満塁のピンチで西岡をぴしゃりと遊ゴロ併殺打に抑えて勝ち投手となった。同じような場面での起用について吉田は「もう一度チャンスを与えてやりたかった」とコメントしている。失敗しても次の試合にすぐ名誉挽回のチャンスを与え選手に自信を付けさせるという(特に投手に多かった)当時の吉田采配の特徴の一つであった。(同じようなケースで後楽園球場での対巨人戦で原辰徳にサヨナラホームランを打たれたが、その次の日の試合でピンチの場面で吉田は福間を起用し福間に「勝負しなさい」と指導し、原をライトフライに打ち取り阪神が勝利した。) 一方、トレード相手の深沢もロッテで先発投手として2桁勝利を挙げるなど活躍したため、「成功したトレード」の例としてもよく語られた。に引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福間納」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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