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禅定(ぜんじょう、, ディヤーナ、, ジャーナ、禅那(ぜんな))とは、仏教で心身ともに動揺することがなくなった一定の状態を指す。色界四禅天に相応して四禅那をとる。広義には無色界の定(四無色定)を禅那に含めることもある。〔坐禅や止観の止行の一種であるサマタ瞑想で得られる禅定もあるとされる。仏教においては、涅槃に至るための禅定に勤しむ教派があり、座禅や止行に対して、観行が重視される場合もある。これはひと口に禅定と言っても音階の調律と同様、種々のバリエーションがあることを示している。〕 サンスクリット語の dhyaana の音写である「禅」と、その意訳した「定」の複合語で、〔座禅や瞑想自体は三昧の一種と捉えられる。三昧は目的となる一方、禅定を得る機縁(手段)となり得ると考えられてきた。阿含部の大般涅槃経では釈迦は九つの定を次々と追体験して涅槃に入ったとされるが、同経には釈迦が涅槃に入る前に座禅したとは説かれておらず、涅槃図は一般に右手を枕にして横になる姿勢で表わされる。〕 漢訳仏教圏の通教で「向」にあたるものが禅、「果」にあたるものが定となるが、道元は禅と定ではなく、禅と果という表現を用いている。 禅定によって心を乱されない力を定力または禅定力と呼ぶ。これについて中国の禅宗第六祖とされる慧能は、その法話集である『六祖壇経』の中で、「外、相を離るるは即ち禅。 内、乱れざるは即ち定なり。 外禅にして内定なる、是れを禅定となす」と表明している。 == 概要 == 禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟して散乱の心を定止することを指している。「静慮」とも訳される。 禅那波羅蜜は色界定として用いられる禅那と異なり、波羅蜜行の禅那であるという違いがある。禅那波羅蜜の禅那も禅定や静慮と訳され、禅那波羅蜜ではなく「(禅)定波羅蜜」、「静慮波羅蜜」と呼ばれることの方が多い。 阿含経典では、この状態に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。これが「四静慮(四色定)」である。次に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。これが、「四無色定」であり、さらに九次第定、 また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とは一体になっており、戒学・定学・慧学の三学を学ぶことが必須である。〔禅定と智慧との関係については、止観を参照。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禅定」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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