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禰寝 清雄(ねじめ きよかつ、正保3年7月23日(1646年9月2日) - 元禄12年1月27日(1699年2月26日))は、江戸時代前期の薩摩藩士。吉利郷私領主の禰寝家当主。 父は禰寝重永。母は北郷忠致の娘。子は島津久明室、禰寝清純室。養子は禰寝清純。幼名安千代。通称七郎、八郎右衛門、孫左衛門、丹波。 == 生涯 == 正保3年(1646年)7月23日、鹿児島で生まれる。明暦2年(1656年)、藩主島津光久が加冠役となって元服する。寛文7年(1667年)、藩主光久の命で禰寝家を相続する。寛文8年(1668年)四番組頭、番頭役を務める。延宝元年(1673年)、藩主島津綱貴帰国許可の答礼使として江戸に下り、江戸城で将軍徳川家綱に拝謁する。延宝3年(1675年)、番頭役として江戸に勤務する。延宝9年(1681年)、藩主綱貴より大隅国の農政を司るよう命を受ける。元禄元年(1688年)、藩主島津綱貴の命で御詰職となる。元禄5年(1693年)、綱貴の命で執事職となり、職禄2000石を賜る。元禄6年(1694年)、綱貴の供をして江戸に出府し、江戸城で将軍徳川綱吉に拝謁する。同年、大日本史編纂事業を進める、前水戸藩主徳川光圀の希望により、禰寝家の系図や文献を閲覧させた。元禄9年(1697年)、長年の精勤を賞され、職禄1500石を賜る。元禄10年(1698年)、上野寛永寺本堂手伝普請の総奉行を務める。元禄12年(1699年)1月27日、江戸藩邸で死去。享年54。家督は藩主綱貴五男徳慈丸(清純)が養子となって相続した。 家老としては殖産興業に力を入れ、藩財政を立て直すべく、櫨の栽培を領民に強制し、利益を上げた(櫨は蝋などの原料となった)。清雄は財政が改善したら、栽培強制は廃止すべきであるとしていたが、この制度は明治維新まで続き、薩摩藩の財源になった。しかし維新を迎えると、櫨の多くは強制を恨んだ領民によって切り倒されてしまったという〔自然と文化 72号 二、薩摩半島の櫨 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禰寝清雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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