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秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。 諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている〔黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」 『戦国遺文 武田氏編 第2巻月報』、2002〕〔〔。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている〔。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている〔。 == 生涯 == === 出生から伊那郡代へ === 『甲斐国志』によれば、父は秋山信任(新左衛門)とされるが、「信」は武田家の通字であるため、『国志』の記す虎繁の父親の実名に関しては疑問視されている〔。 確実な初見史料は天文18年(1549年)5月とされ、左近士親兵衛尉に対し、一月に馬三匹文の分国諸関諸役免許を与えた武田氏朱印状の奏者として見られる〔諸州古文書 - 655〕〔〔。 『高白斎記』によれば、天文22年(1553年)4月に落城した信濃国葛尾城(長野県坂城町)に在城して戦後処理を担当し、御一門衆の武田信繁が虎繁に対して上意を伝達している〔。 虎繁は大島城(長野県松川町)の城代を務め、信濃国のうち伊那郡の守備を任されたという。『甲陽軍鑑』によれば、虎繁ははじめ高遠城(伊那市高遠町)で「上伊那郡代」(郡司)であったが、永禄5年(1562年)に信玄四男の諏訪勝頼(武田勝頼)が高遠城主となると、飯田城(長野県飯田市)へ移ったという〔。ただし、虎繁が高遠城に在城した痕跡は見られないことが指摘される〔。 年未詳8月18日武田晴信書状において、信濃大島城に在城していた室住虎光(豊後守)と「秋山善右衛門尉」が、美濃国の斎藤道三が国境付近において軍勢を動かした際に、大島城において情勢を晴信に報告し、晴信から指示を与えられている〔。同文書は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死している室住虎光の没年から永禄初年頃、あるいは弘治元年(1555年)に推定されており〔、「秋山善右衛門尉」は虎繁を指すと考えられている〔。なお、この時には美濃の国衆・遠山氏支援のため美濃苗木城(岐阜県中津川市)に在番していた可能性が指摘される〔。 これ以後も大島城に在番し続け、永禄2年(1559年)12月には伊那郡の春近衆・赤須昌為の所領紛争の解決などに携わっている〔〔。虎繁は主に伊那郡において美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に携わっており、『甲陽軍鑑』では虎繁を「伊那郡代」としている。 永禄2年から永禄8年(1565年)頃に受領名「伯耆守」を受ける〔。同年には尾張国の織田信長との同盟交渉においては取次を務める〔〔。永禄11年(1568年)には岐阜へ赴いたという(『甲陽軍鑑』)〔。なお、「秋山善右衛門尉」と「秋山伯耆守」は活動時期から同一人物であると推定されており、後に織田信長が打ちとった敵将・攻略した城郭を記した「信長公御一代合戦之覚」(徳川林政史研究所所蔵古案)では、長篠合戦以前に、虎繁を指していると考えられている「秋山善右衛門」の名が見られる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋山虎繁」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Akiyama Nobutomo 」があります。 スポンサード リンク
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