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秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日〔秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年、P50〕 - )は、熊本県八代郡宮原町(現:氷川町)出身〔の元プロ野球選手、監督。選手時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスに所属。ポジションは三塁手、のち外野手。福岡ソフトバンクホークス第19代監督を務めた。 2005年には福岡ソフトバンクホークス二軍監督に就任。は総合コーチ、はチーフコーチを務め、シーズンからシーズンは同チームの一軍監督(第19代)を務めていた。 == 経歴 == 彼が生まれる前に7歳で夭折した兄がおり、母から、その兄の分まで人の二倍幸せになってほしいという意味で「幸二」と名付けられた。幸二本人も4歳の時に自家中毒にかかって生死の境をさまよったことがある。彼が中学生の時に姉を17歳で白血病で亡くしている。小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は得意でなかった部類という。中学時代はサードやセンターを守っていた。 熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。3年生時の春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた。当時から12球団のスカウトに注目されていた〔朝日新聞1985年6月15日朝刊〕ものの、大学への進学意思が強く〔ドラフトでは指名されなかった。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、巨人、阪急、広島との争奪戦の上〔http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070801152.html〕、西武の執拗な説得と「君を打者として育てたい」という言葉が決め手になって〔1981年1月にドラフト外で西武ライオンズに入団した。秋山は熊本工業の大津一洋、柳川の中島輝士、都城の井上祐二と共に九州四天王と呼ばれていたが、自分の実力がプロで通用するとは思わなかったという〔卒業、P78〕。当時の西武のスカウト浦田直治から「君には四年後西武ライオンズのサードを守り、そしてクリーンナップを打ってもらいたい」と言われたという〔卒業、P80〕。入団当時の監督である根本陸夫は、183cm、80kgの体躯の秋山を一目見ると、「野球をやっていなかったら、オリンピックの十種競技の選手になれた」と惚れ込んでいる〔秋山前監督エピソード 若手時代、重い背番号で発奮「絶対、若い番号を」 Sponichi Annex 2015年1月30日閲覧。〕。当時西武のコーチだった伊原春樹も著書の中で「運動神経が抜群で脚力50メートル5秒台、遠投120メートル、鉄棒やマット運動をやらせても、体操選手だったのかと思うほど、簡単にこなします。ご存知のように、バック宙もお手のもの。あの体の大きさで、これだけの身体能力を持った選手は、後にも先にも見たことありません」と記している〔伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P120-121〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋山幸二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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