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秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、明治 - 昭和時代の日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。位階・勲等は正四位勲三等。フランス料理アカデミー名誉会員〔森枝、p.109〕。 その生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる〔森枝卓士「日本の食を変えた料理人 秋山徳蔵」、松平乘昌編『図説 宮中晩餐会』(河出書房新社、2012年)p.105〕。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。 == 生涯 == 1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村(国高村村国、現・越前市村国三丁目)において〔越前市〕、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった〔。幼少期にはおさまらない性質だったという〔森枝、p.105〕。10歳の時、学校友達が禅寺の小坊主になっているのを見て自分もなりたくて堪らなくなり、無理を言って寺に入れさせてもらったが〔秋山徳蔵著『味』 中公文庫 2015年1月25日発行 ISBN 978-4-12-206066-1〕、その禅寺でもいたずらは治まらず1年で追い出されたという〔港区「MYタウン赤坂青山」第26号、平成26年1月7日〕。(因みに、小僧時代の法名は「徳有」〔。)武生町橘にあった「八百勝」で働く。 秋山が自著『味』で記したところによれば、鯖江にあった陸軍の連隊を訪ねた際に、食堂でそれまでに嗅いだことのない香ばしい匂いに触れたことが、西洋料理との出会いであったという〔森枝、p.105〕。実家の仕出し屋が三十六連隊の将校集会所の賄いをやっていた関係で集会所を訪ね、そのとき初めて口にした洋食・カツレツの味に衝撃を受け、西洋料理のコックになることを志した〔築地精養軒〕。高等小学校を卒業したのち〔、16歳で単身上京し、華族会館の見習いとして料理人としてのキャリアをスタートさせる〔森枝、pp.105-106〕。そこで3年間働いたほか、駐日ブラジル公使館、築地精養軒で働いた〔森枝、p.106〕〔。精養軒では、フランスのオテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエに師事した第4代料理長・西尾益吉の下で学び、西尾に倣ってフランス行きを決心し〔、仕事のあとに料理原書を持ってフランス語の個人レッスンに通った〔〔。その後「東洋軒」三田本店の3代目料理長に就任する〔本の話web、文藝春秋、2012.12.03 〕〔東洋軒本店〕。 1909年(明治42年)から、本格的な西洋料理修行のため私費でフランスに渡航する〔森枝、p.106〕。料理人修行のための渡欧は、同時代では稀なことであった〔森枝、p.106〕。ベルリンのホテル・アドロンの調理場を経て、パリの日本大使館の紹介により、オテル・マジェスティックの厨房に入り2年間修行、苦労の末に料理の腕を認められるようになった〔森枝、p.107〕。その後、キャフェ・ド・パリに半年〔、オテル・リッツ・パリにおいてオーギュスト・エスコフィエの下で半年働いている〔森枝、pp.107-108〕。 1914年(大正3年)に予定されていた大正天皇即位の礼を控え(実際は同年4月に昭憲皇太后が崩御したため、翌年に延期された)、外国からの賓客に本格的なフランス料理を提供できる料理長として、1913年(大正2年)、パリの日本大使館の推薦により宮内省に招かれて帰国し〔松平乘昌「宮中の饗宴」、松平乘昌編『図説 宮中晩餐会』(河出書房新社、2012年)p.5 ; 森枝、pp.107-108〕、東京倶楽部料理部長を経て、新設された宮内省大膳寮の初代厨司長に任じられた〔森枝、pp.107-108〕。なお、同年7月、下宿先の一人娘、秋山俊子と結婚して秋山家へ入籍、秋山姓となる。1915年(大正4年)に行なわれた大正天皇の御大典で18か国の賓客を本格的なフランス料理でもてなす。このとき、支笏湖産のニホンザリガニ4,000個体を本州に運び、うち3000匹が御大典に使われ、残りは御用邸のある日光に放流された〔川井唯史, 大高明史、弘前大学教育学部紀要. 101, 2009,〕。 1920年に宮内省の命により再び渡仏して研究を続け、1921年の皇太子裕仁親王の欧州訪問の際には一行に随行して各国主催の晩餐会の現場を見学し、その後アメリカに渡りニューヨークの有名レストランを歴訪視察して1922年に帰国した〔『仏蘭西料理全書』 秋山徳蔵著 (秋山編纂所出版部, 1923)〕。 1923年(大正12年)、1600ページに及ぶ『仏蘭西料理全書』を刊行〔森枝、p.109〕。『仏蘭西料理全書』は、1966年に新版が刊行されるなど、第二次世界大戦後に至るまで西洋料理を学ぶ者の「バイブル」とされた〔森枝、p.109〕。このほか、一般向けに『味』などの書籍を刊行した。1971年(昭和46年)には、フランス料理アカデミー名誉会員、パリ調理士協会名誉会員、フランス主厨長協会会員になった〔徳蔵 20世紀日本人名事典〕。 皇室に対する忠誠心が厚い事で知られ、また、料理技術の向上の為には貪欲かつ謙虚に学ぶ姿勢も知られ、時には優れた技術を持つ世間的には格下とされる料理人にも頭をさげて学ぼうとする姿勢が見受けられたという。 昭和になってからは、昭和天皇の「埋もれゆく郷土料理を記録するように」という意思を受けて秋山が東北地方の郷土料理を調査し、その献立などについての記録を記したり〔朝日新聞が伝えた「天皇の料理番」秋山徳蔵 2015年6月24日付〕、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀が訪日した際に、溥儀が主催した食事会では満州料理の調理を秋山自らが手がけたことなどが伝わっている〔朝日新聞が伝えた「天皇の料理番」秋山徳蔵 2015年6月24日付〕。 1972年(昭和47年)、84歳で現役を引退〔森枝、p.109〕。1973年(昭和48年)に勲三等瑞宝章を受章〔森枝、p.109〕。翌年没した。1974年(昭和49年)、没後に従四位、ついで正四位に叙された〔秋山徳蔵著『舌』 中公文庫 2008年12月20日発行 ISBN 978-4-12-205101-0〕。 ファイル: Tokuzo Akiyama, the chef to the Emperor of Japan (in his early years)1.jpg |少年時代の高森徳蔵 ファイル: Tokuzo Akiyama, the chef to the Emperor of Japan (in his early years)2.jpg |武生町で奉公中の高森徳蔵 ファイル: Tokuzo Akiyama, the chef to the Emperor of Japan in 1913 (at the age of 25).jpg | 大正2年(1913年)、宮内省大膳寮厨司長に就任した頃の秋山徳蔵(就任は同年11月で、それに先立ち同年7月に結婚し、秋山家の婿養子となった) ファイル: Tokuzo Akiyama, the chef to the Emperor of Japan with Emperor Showa in 1949.jpg | 昭和24年(1949年)頃、皇居での立食の宴にて秋山徳蔵(左)、寿司をつまむ昭和天皇(右)と共に 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋山徳蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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