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株式会社秋山愛生舘(あきやまあいせいかん)は、「愛生館」の36処方薬を北海道地区で独占販売する企業として設立。「医薬品」製造・「医薬品」「衛生材料」の卸・小売を中心とする日本の企業であった。現在はスズケンである。地盤の北海道ではシェアの30%を超えるトップ企業であった。 == 概要 == 北海道札幌市東区北6条東3丁目1 *「愛生館」は、1888(明治21)年、高松保郎が、東京で創業。 *明治政府は西洋医学を推進した為に、薬代が高騰し一般庶民が医師の診療を受けられなくなった。高松保郎は「弘道愛民主義」を掲げ売薬業を開業。 *高松保郎は、創業理念に「療病のために必要な諸般の薬剤を製造して発売し、山間へき地にいたるまで、薬餌を得ることができないために夭折したり、長病を患うことのないようにする」とした。 *「愛生館」に設立当初から関わったのが、初代秋山康之進であった。 *初代社長秋山康之助は、千葉県幕張武石にて佐倉藩典医・芝田元達の次男として誕生し、明治16年秋山新八の嗣子となった。 *「愛生館」千葉県販売特約店の「雷鳴堂」(代表者・川口新之丞)に雇用され京都・大阪の代理店の責任者として販売拡大を図る。若くして実績と信頼を高め、26歳のときに台湾の台北駐在を依頼されたが、これを断り北海道支部の開設を任された。 *1891(明治24)年、愛生館北海道支部は札幌市南1条西6丁目に開設、康之進はその支部長に就任、しかし、開設まもなく館長の高松保郎が、56歳で他界し北海道支部は閉鎖することになり、康之進は東京へ引き揚げることになったが、近隣の人びとの懇願によって札幌にとどまることを決意し、独立自営して秋山愛生舘を創業。 *「愛生館」の処方薬を販売していたので「秋山愛生舘」としたが、館と舘を変えて社名としている *創業当時の主力商品は、各種疾病に対して自己治療ができる「愛生館製剤36方」と乳幼児の妙薬「活児」、その後一般卸売業を始め、道内全域に一気に販路を拡大した。この時の拡大戦略で経営に一時いきずまるが、自社開発商品を北海道地区では自社が販売、その他の地区は、大阪藤沢薬品工業が販売し莫大な利益を得て窮地を脱する。 *1923(大正12)年、関東大震災の際北海道庁は救護班を東京へ派遣した。この時、康之進は「倉庫の鍵をお渡しいたしますから、何なりとお持ちください」と言って倉庫が空になるまで物資を提供した為、病院に納品する薬品が底をつく、それまでは東京の医薬品製造業者との取引だけを行っていた。主力取引企業の東京田辺製薬が震災で壊滅状態になっていた為、大阪の製造業者との取引が急務となった。その際大阪の田辺製薬と大量の医薬品供給契約を締結しすぐさま小樽港に大量の医薬品が届けられた。この事が、自社での医薬品製造業を始めるきっかけとなった。 *薬業卸に三女傑ありといわれた一人が秋山愛生舘 の秋山テツであった(下関市の土谷イシ(土谷薬品)・広島市の寺西貞香(寺西薬品))。 *スズケンが、武田商品の取り扱いを狙って合併したが、秋山愛生舘による武田商品の販売地域は北海道に限定されており、武田は他の医薬品卸業者(ほくやく)による武田販売を強化していった。結果的には北海道における武田商品の販売シェアも従来の秋山愛生舘の時に比べて格段に低下している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋山愛生舘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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