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文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ きこ、1966年(昭和41年)9月11日 - )は、日本の皇族。秋篠宮文仁親王の妃。旧名は川嶋 紀子(かわしま きこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等は勲一等宝冠章。学位は博士(人文科学)(お茶の水女子大学・2013年)。 == 略歴 == === 結婚以前 === 1966年(昭和41年)9月11日 、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市で誕生。父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカで過ごす。この間に自由学園幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。 父の仕事の都合から、小学校の転編入を繰り返す。1976年(昭和51年)、父が学習院大学教授に就任したことから、学習院初等科へ編入。しかし、翌年の1学期を終えた段階で、父がオーストリアウィーン郊外ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所(IIASA)の主任研究員に招かれたため、一家で渡墺。約2年間を同地で過ごす。ウィーン滞在中は現地のアメリカン・スクールに通い、英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなった〔読売新聞 1989年8月26日〕。 1979年(昭和54年)9月、日本へ帰国。学習院女子中等科へ編入し、学習院女子高等科に進む。女子高等科時代には、クラスで選ばれて厚生委員を務め、街頭に立ってハンセン氏病患者を始め恵まれない人たちへの募金を呼びかけたり、身体障害者の人たちが作った絵葉書をすすめたりする活動に取り組んだ。 1985年(昭和60年)、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の礼宮文仁親王(当時)と出会う。以降、サークル活動を通して交際を深めた。1986年(昭和61年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。早い段階から宮中にも招かれ、皇太子明仁親王(当時)らとも面会していた。礼宮が主宰するテニスサークルでは、皇太子明仁親王、美智子妃(当時)も参加してダブルスの試合に興じ、楽しんだという。明仁親王は、「キコちゃん」と気さくに呼びかけたり軽食をすすめたりするなど、ごく自然に一家に溶け込めるよう心配りをしたという〔産経新聞 1989年8月27日〕。 大学では礼宮との出会いの場となった自然文化研究会のほか、心理研究会、手話サークルに所属。手話は、文化祭で手話劇を観て感動したことをきっかけに始めた。言葉が不自由な学生に付き添って講義を受け、通訳をしたりノートを取ったりもしていた。身障者の車椅子を押したり、自閉症の子どもの面倒を見るなどのボランティア活動も行っている。 また、大学内外の国際交流団体で留学生の世話をしたり、アジア問題など興味を持つ分野の講義を、他大学で聴講したこともあった。 婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と表記した報道機関も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた〔静岡新聞 1989年8月27日〕。 1989年(平成元年)、学習院大学を卒業し同大学院進学、社会心理学を専攻する。同年8月26日、婚約内定が報道される。9月12日に開かれた皇室会議において可決され、同日午後、文仁親王同席の記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された〔讀賣新聞1989年8月27日 社説「皇室にとっては久しぶりの慶事である。心からお祝いを申し上げたい」〕。昭和天皇の喪が明けた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約が成立した。 当時の住居が学習院大学教職員用の共同住宅だったことから、マスコミは「3LDKのプリンセス」「一般家庭から誕生した現代のシンデレラ」と彼女を呼んだ。 同年、6月29日に結婚の儀が行なわれ、これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文仁親王妃紀子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiko, Princess Akishino 」があります。 スポンサード リンク
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