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科野国造(しなののくにのみやつこ・しなのこくぞう)は、信濃国を支配した国造。 == 概要 == 元は「シナヌ」であったとされ、後に「科野」の字が当てられた。『古事記』中巻には「神八井耳命者科野国造等之祖也」と記され、大国主命の子健御名方命が諏訪に入国する際にも、「科野国之洲羽海」に至ると記される。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に百済が朝廷に遣じた使者として上部徳率科野次酒〔『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)正月乙亥十二〕、上部奈率科野新羅〔『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)八月丁西七〕の名があり、正史における「科野」の初見は6世紀の半ばである。 古墳時代の前方後方墳は、弘法山古墳(松本市)や姫塚古墳(長野市)、瀧の峯古墳群(佐久市)など長野県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。 神代の時代、出雲の国譲りに反対していた大国主の長男建御中主尊が大和方の武甕槌神と相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一之宮の格式を誇り武芸と開拓の神として尊崇を集めた。 弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で「科野の大王」の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる〔福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』 2003年 43ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「科野国造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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