翻訳と辞書
Words near each other
・ 秦末清
・ 秦村
・ 秦村 (埼玉県)
・ 秦東亜
・ 秦松
・ 秦桐若丸
・ 秦梨城
・ 秦梨村
・ 秦梨町
・ 秦楽寺
秦檜
・ 秦正流
・ 秦氏
・ 秦汾
・ 秦沈客運専線
・ 秦河勝
・ 秦泉寺尚
・ 秦泉寺秦惟
・ 秦泉寺豊後
・ 秦淑妃


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

秦檜 : ウィキペディア日本語版
秦檜[しん かい]

秦 檜(しん かい、1090年 - 1155年)は、南宋宰相会之。江寧(現在の南京)出身。との講和を進め和議を結ぶが、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺・平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に恐怖政治を敷いたので、後世、その名は売国奴の代名詞となり蔑まれた。妻は王氏(宰相・王珪の娘)、実子の名は不詳、養子秦熺の子である孫が秦塤〔『宋史』列伝第二百三十二 姦臣三によると、紹興23年(1153年)の科挙で秦塤は陸游と競い、その結果、陸游が首席となり、秦塤は次席となった。しかし秦檜は孫が有利になるために手をまわして、次の殿試で秦塤が首席で及第し、陸游が落第したと記されている。〕。
== 略歴 ==
1115年科挙に合格、順調に出世を重ねる。1127年に金が北宋を滅ぼし、華北統治のために張邦昌を首領に据え傀儡国家の楚を創ろうとした際、秦檜は反対したとして、同じく反対した他の朝臣と共に粘没喝の軍に北へ連れ去られた。その後、他の宋旧臣は各地へ連行されたが、秦檜のみは厚遇を受けている。
1130年、秦檜は金から解放されると、南の高宗の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜びを表し、即日礼部尚書とした、翌年には宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して金との交渉を担った。
当時は岳飛を初めとする、対金戦で軍功を挙げた武官が台頭しており、主戦派の政治家と共に講和派の秦檜を批判した。これに対して、金の圧力を背景に高宗の支持を得た秦檜は、禁軍将帥や張邦昌等の軍閥間の不仲から起きた対立と均衡の上に政権を掌握した。
1141年、講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄と言われた岳飛に至っては「莫須有(有ったかもしれない)」として反逆罪で謀殺した。主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢げるという、屈辱的な内容の和議を結んだ(紹興の和議)。
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、反対派や義軍に対しては徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても文字の獄を起して弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
1155年、宰相の地位に居座ること20年、66歳で死んだ。岳飛の孫である岳珂が著した『程史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった張浚を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという〔『程史』巻12。類似の話は朱熹の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。〕。
高宗は金を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れない程だ」と語っていたが、秦檜が死ぬと楊存中に対して、それは本意ではなく「私は今日からは靴の中に匕首を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾の上で罷免している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秦檜」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.