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秦氏(はたうじ)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。 == 出自 == 『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。〔『日本書紀』応神14年条〕(別名は融通王〔『新撰姓氏録』左京諸蕃〕)を祖とする。『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが〔『新撰姓氏録』左京諸蕃〕、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって〔上田正昭『帰化人』中公新書、1965年,p71〕、その真実性には疑問が呈せられており〔太田亮『姓氏家系大辞典』〕、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。 *秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)〔 *百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)〔笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『考古学論考』『古代の日朝関係と日本書紀』所収)〕〔369 〕 *弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)〔田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章。関晃『帰化人』至文堂、1966年、p96-97〕 *景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)〔佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」( 喜田貞吉主宰『地理歴史 百号』明治41年1月収載)〕 『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており〔「」(『隋書』「」)〕、これを秦氏と結び付ける説もある〔大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社〕。 本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした〔関晃『帰化人』至文堂,昭和41年,p96-97〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秦氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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