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秦瓊 ( リダイレクト:秦叔宝 ) : ウィキペディア日本語版 | 秦叔宝[しん しゅくほう] 秦 叔宝(しん しゅくほう、生年不詳 - 638年)は、中国の唐の軍人。姓は秦で、名は瓊。叔宝とは字であり、字をもって通称される。本貫は斉州歴城(現山東省済南市)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。 ==経歴== はじめ隋の将軍の来護児の部将となった。のちに張須陀に従って李密を滎陽で討伐した。張須陀が李密に敗れて戦死すると、叔宝は残兵を率いて裴仁基の部下となり、裴仁基に従って李密に投降した。李密に重用されて、帳内驃騎に任ぜられた。李密が敗れた後、王世充に降り、龍驤大将軍に任ぜられた。619年、王世充の性格を嫌って、程知節らとともに唐に帰順し、秦王李世民の幕下に属した。馬軍総管となって尉遅敬徳と美良川で戦い功績を挙げた。秦王右三統軍となり、宋金剛を介休に敗走させ、上柱国に任ぜられた。王世充・竇建徳・劉黒闥らに対する征討でしばしば先鋒に立って敵陣を突破した。功績により翼国公に封ぜられた。玄武門の変の後、左武衛大将軍に任ぜられ、実封七百戸を受けた。638年に亡くなり徐州都督を追贈され、昭陵に陪葬された。太宗(李世民)はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた。639年、胡国公に追封された。
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qin Shubao 」があります。
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