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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 真 : [まこと, しん, ま] 1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness
秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)。2012年から読売ジャイアンツのバッテリーコーチ。 1994年から1998年ごろまでの間、スコアボードでの選手名表記を平仮名の「はた」としていた(登録名はそのまま)。当時の電光掲示板の解像度では「秦」の文字が読み取りづらいための措置である。 野球学校PBAの運営会社である有限会社裸裸裸の取締役も務める。 == 来歴・人物 == === 現役時代 === 徳島県立鳴門高等学校では、に同期のエース島田茂を擁し春夏の甲子園に出場。春の選抜では、1回戦で滝川の石本貴昭投手に抑えられ敗退。夏の甲子園では3回戦に進出するが、優勝した横浜高のエース愛甲猛に1-0で完封される。 島田とともに法政大学に進学し、東京六大学リーグでは4度の優勝を経験、ベストナインに2回選出される。 全日本大学野球選手権大会でも、に優勝している。1984年には第13回日米大学野球選手権日本代表に選出され、同年のロサンゼルスオリンピック日本代表として金メダルを獲得した。 、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。に法大野球部の大先輩・関根潤三が監督に就任し、翌より、八重樫幸雄を押しのけ正捕手に定着する。 、新たに就任した野村克也監督からリード・配球面を問題視され、開幕後数試合はスタメンで出場したが、新人の古田敦也に正捕手の座を奪われる。野村によると、ある試合のカウント3ボール0ストライクの場面でストライクをとることが最優先の場面に変化球を投手に要求した結果が四球となり、さらに野村が詰問したところ「(打者が)打ってくるような気がしたから」と答えたという。野村は秦の送球術にも難を感じて、後年、秦の捕手としての適性について、「(前任の関根は)このキャッチャーでよくやっておられた」「キャッチャーとしては鈍感の部類」などと振り返っている。捕手としては酷評されたが、強打・地肩の強さ・脚力に着目されて外野手に転向した〔138頁 - 139頁〕。 には右翼手の定位置を獲得し、規定打席にも到達(12位、打率.292)。同年のオールスターゲームに出場。 10月25日、西武ライオンズとの日本シリーズ第6戦では高校の後輩・潮崎哲也からサヨナラ本塁打を記録。 10月6日、ヤクルトが迎えた対読売ジャイアンツ(巨人)最終戦(明治神宮野球場)は、巨人が勝ち同日に中日ドラゴンズが負ければ、巨人の優勝が決まる試合であった。7回裏に、リリーフの槙原寛己をヤクルトがとらえ、同点に追いつき、なお走者を2人残して秦が打席に立った。秦は右翼席中段に勝ち越し3ラン本塁打を放った。結局この試合に敗れた巨人は、中日と10月8日の最終戦で優勝をかけてぶつかることとなった(10.8決戦)。10月7日付の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞は、秦がうなだれる槙原を尻目にダイヤモンドを回るシーン、または打ったシーンの写真を掲載した。 、リーグ優勝、日本一に貢献。しかし日本一の祝勝会ではしゃぎ過ぎて転倒。割れたビール瓶で足を10針縫う大怪我をしてしまう(報道でも取り上げられたが、自身は病院で治療してもらった直後に、チームの祝勝会の二次会会場である六本木に合流している)。 稲葉篤紀、真中満らの台頭で控えに回った後も、左の代打として計3度の日本一に貢献したが、、打率が2割にも満たず本塁打も0に終わり、戦力外通告を受ける。 1997年プロ野球脱税事件に関わっていたことが発覚した。 には日本ハムファイターズに金銭トレードで移籍し、翌にはテスト入団で千葉ロッテマリーンズへ移籍。同年7月には一軍登録されている捕手全員を使い切り、橋本将の防具を借用して途中から捕手として出場したこともある。同年限りで現役を引退。同年10月16日の引退試合では代打で出場し、タイムリー二塁打を放った。その後、代走を出されてベンチに戻った秦は感極まって涙を流したが、スタンドのファンからの大きな声援を受け、ベンチを出てそれに応え、現役生活を締めくくった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秦真司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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