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秦良玉(しん りょうぎょく、1574年 - 1648年)は中国・明の軍人。姓は秦で、名は良玉、字は貞素。少数民族の出身ながら漢民族のために戦った。彼女の軍はトネリコでできた槍を持っていたため、白杆兵と呼びおそれられた。武力だけでなく、教養にも優れ詩文を良くしたという。なお、秦良玉は正史に列伝を持っている唯一の女性武将でもある。 == 略歴 == 出身地は四川の忠州(現在の重慶市忠県)。成長しては忠州を治めていた石砡宣撫使・馬千乗の妻となる。万暦27年(1599年)に楊応龍の乱が起きると、夫とともに従軍。自身も500の兵を指揮し、南川においては戦功一等とされた。しかし、夫の馬千乗は後に無実の罪で獄死。それ以降は秦良玉が代わって石砡を統治することになる。 天啓元年(1621年)、後金の侵入を防ぐため戦う。その戦いで、秦良玉は兄の邦屏と、弟の秦民屏とともに遼東の地を守りきることに成功した。しかし、兄である秦邦屏は戦死。秦良玉は朝廷に対し、兄と遺族に対する保障を願い出た。これによって、秦邦屏は都督僉事を追贈され、これが遺族に世襲されることになった。 同年、四川で奢崇明が反乱を起こした。秦良玉はこの反乱軍に勧誘されるも使者を切り殺すと、弟の秦民屏、甥の秦翼明、秦拱明を率いて賊の鎮圧に出陣。蜀の土地を平定することに成功する。 崇禎3年(1630年)、永平の四城が陥落すると、崇禎帝から呼び出しを受ける。てっきり責任の追及をされると考え、秦良玉は全ての軍費を兵に分け与えたうえで京師(北京)に赴く。しかし崇禎帝は秦良玉のこれまでの功績を賞賛するために謁見させたのであり、秦良玉は崇禎帝が作った詩を4つと、その他の恩賞をもらい四城の回復を命じられて帰還した。その後も、秦良玉は数多くの賊を退治する。 崇禎13年、大量虐殺で有名な張献忠と戦うがこれにはかなりの苦戦を強いられる。というのも、相手の兵力が多かったというのもあるが、その味方の武将が良玉の建策を受け入れてくれなかったというのもある。結局、四川は張献忠に支配されてしまった。また、崇禎17年には李自成の乱により崇禎帝が死亡、明が滅亡した。しかし、良玉は亡命政権である南明の弘光帝に仕え、ここで官爵を得る。そうして忠州に立てこもり、順治3年(1646年)に張献忠が死ぬまで戦い続けた。 同じく張献忠と戦った少女軍人として沈雲英が知られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秦良玉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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