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秩父氏(ちちぶし)は、日本の武家のひとつ。本姓は平氏。桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。後に秩父平氏と呼ばれる多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。 == 歴史 == === はじまり === 初代の平将恒は、武蔵介・平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。秩父地方は、産出した銅が708年に朝廷へ献上されて「和銅」に改元されるなど、古代より良質の馬や銅の産地として栄えた土地であった。 将恒の父・忠頼は平将門の従兄弟にあたり、将門と対立した平繁盛を仇敵と呼び、将門の娘・春姫を妻としていることからも、忠頼の父・良文は将門と親しかったものと思われ〔将門に敵対した繁盛は、子の忠頼から「仇敵」とよばれていることから、良文は将門と親しかったものと推測されている。……『日本古代中世人名辞典』、「平良文」の項(596頁)〕、忠頼の息子である将恒の「将」の字も将門から引き継いだものと思われる。 将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。武綱の息子である秩父重綱の代には、武蔵国国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。秩父重綱の長男、重弘の子は畠山氏、二男である重隆の孫は河越氏を称し、三男、重遠は高山氏、四男の重継は江戸氏を称した。こうして武蔵国各地に移った一族は平氏の血筋を武器に在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大し、秩父平氏(秩父党)を形成していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秩父氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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