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秩父宮雍仁 : ミニ英和和英辞書
秩父宮雍仁[にん, じん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちち]
 【名詞】 1. (hum) father 
: [にん, じん]
 (n) kernel

秩父宮雍仁 ( リダイレクト:秩父宮雍仁親王 ) : ウィキペディア日本語版
秩父宮雍仁親王[ちちぶのみや やすひとしんのう]

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年明治35年)6月25日 - 1953年昭和28年)1月4日)は、日本皇族大正天皇貞明皇后(同日の誕生日であった)の第二皇子。昭和天皇の弟宮、今上天皇の叔父にあたる。
妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。御称号淳宮(あつのみや)。身位親王お印若松(わかまつ)。階級陸軍少将勲等功級大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はない。
== 生涯 ==

幼少の頃は裕仁親王(当時)、宣仁親王と共に育ち、3人とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄とよく比較された。玩具の取り合いで兄と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。
祖父である明治天皇には、よく玩具を与えられたと同じく回想しているが、明治天皇と触れ合う機会は、天皇自身が公務を優先したため生涯ほとんど無く、崩御寸前まで声を聞くこともなかった。反面、義理の祖母にあたる昭憲皇太后とはよく会い、兄弟や学友たちと共に芝居を披露したこともあった。
1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科二年ののち、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校に入学。1920年(大正9年)10月、陸軍士官学校に入学した。同期には服部卓四郎西田税などがいる。卒業後1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官された。1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入学、昭和6年11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった。
1922年大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家秩父宮」創立、宮号の由来は、秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ選定された。1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが実際には自由恋愛ではなかった。妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだが流産し、親王は勢津子と共に悲しみにくれた。
1930年(昭和5年)12月5日、帝都復興記念章を授興された〔『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742〕。
1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊の中隊長を務めた〔『官報』第1476号、「叙任及辞令」1931年11月30日。p.701〕。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち彼らの革新思想の影響を受けた。本庄日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎木戸幸一近衛文麿原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている〔。昭和天皇からの内意により青年将校から引き離すため同年9月に参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。
1933年(昭和8年)12月23日に明仁親王が誕生するまで秩父宮は皇位継承第一位に位置しており、筆頭直宮家でもあった。皇太子や皇太弟には冊立されていない。明治以降で初めての皇弟である。
1935年(昭和10年)8月に弘前市歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し弘前市紺屋町の菊池長之の別邸に居住した。
1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。秩父宮は翌日の27日に上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で会談している。秩父宮は夕方に上野駅に到着し憲兵の護衛を受け参内し昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。木戸日記によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている〔。
同年12月に参謀本部第1部付となる。1937年に欧州歴訪を行い、イギリスのジョージ6世の即位式に出席、その後スウェーデンオランダを訪問した。最後の訪問国としてドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで行なわれていたナチス党大会に来賓として出席し、ヒトラーとニュルンベルク城で会談を行なった。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンについて「私は彼を憎みます」と秩父宮の前で激しく罵った。これに対して秩父宮は英語で「国際間において相手国の代表者を毛嫌いして良いのでしょうか?」と返し、ヒトラーは一瞬ひるんだあとに、上目づかいに秩父宮を睨んだとされる〔2010年3月号 文藝春秋「昭和天皇」〕。この面会について秩父宮は、付き武官の本間雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい」と述べている。
昭和天皇独白録によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年、同盟に消極的な昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが「この問題については直接宮には答えぬ」と突っぱねられている。
1938年(昭和13年)1月に大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、1939年(昭和14年)8月に陸軍大佐に昇進した。
1940年(昭和15年)に肺結核と診断され、翌年より御殿場で療養生活を送る。昭和16年3月に参謀本部附、昭和20年3月に陸軍少将に昇進したが、戦時中は御殿場別邸にて療養を余儀なくされた。戦後は療養生活を送りながら皇族として執筆を含む活動を行った。
1952年1月に御殿場から神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し、1953年(昭和28年)1月4日に薨去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yasuhito, Prince Chichibu 」があります。




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